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2006.08.06

「白狐魔記 源平の風」 狐の瞳にうつるもの

 人に変化する術を身につけた狐の視点から見た児童文学シリーズ「白狐魔記」の第一巻。源平合戦の頃を舞台に、主人公・白狐魔丸が、人と様々に触れ合いながら人の世の不条理・不思議を見つめていきます。

 主人公の狐は、元々はごく普通の、名もない野生の狐。その狐が、親兄弟のもとを離れ、各地を転々とするうちに、人間という存在に興味を持ち始めます。やがて人の言葉を理解するようになった狐は、ある里で、仙人の下で修行を積めば、狐も人間に変化できるという話を耳にして、純粋な――本当にそんなことができるのかという――興味から、仙人の棲むという白駒山を目指します。
 途中、源氏と平氏の合戦(一ノ谷の合戦)を目撃したり、猟師たちに追われ心ならずも猟犬を殺したりといった冒険の果てに辿り着いた白駒山の仙人の下で暮らすようになった狐ですが、仙人は修行・苦行という行いを鼻で笑い、ただ狐に人間の言葉と、人間の姿での振る舞いを教えます。

 そして時は過ぎ、仙人に人間に変化する法を教わった狐は、白狐魔丸(しらこままる)という名をもらい、旅に出るのですが、そこでふとしたことから出会うこととなったのは、兄・頼朝に疎まれて京から落ち延びる途中の源義経主従。かつて、一ノ谷の合戦の鵯越で義経と出会ったことのある白狐魔丸は、義経という人間の不思議な魅力に興味を持ち、一行と行動を共にするのですが…

 人に変化する術を会得した白狐魔丸ですが、そのパーソナリティーはあくまでも狐のもの。その彼の目から見た人間という存在、そして人間が繰り広げる戦というものは、彼にとっては不可解なもの。
 野生の動物であれば、自分が食べるために獲物を殺すことはあっても、あくまでも己が食べる分のみ。縄張りを守るために戦うことはあっても、相手を殺すまで戦うことはありません。しかるに人間は…(この辺り、ラストでいかにも狐らしい納得の仕方をしていて、それはそれでいいのかなあとは思いますが、それは今後のシリーズによって変わるやもしれず)。
 と、こうやって書くと非常に青臭い疑問ではあるのですが、まあ狐だしな、とその印象をうまく緩和しているのはうまい作品構成だと感心します。

 そして義経主従の中で白狐魔丸が一番親しみを覚えたのは、優しい心を持った佐藤忠信(忠信と狐と言えば「義経千本桜」が頭に浮かびますが、当然そこからの連想なのでしょう)。白狐魔丸とも分け隔てなく言葉をかわし、ある意味武士らしからぬ心根を持つ彼ですが、しかし、主君である義経を落とすため、追っ手相手にただ一人、獅子奮迅の活躍を見せることとなります。
 ここで白狐魔丸が再び感じるのは、主君のために自分の命を投げ出し、そして他者の命を奪う忠信の――すなわち武士の心・生き様への違和感。我々人間にとってみれば、ある意味当然、とは言わないまでも普通に理解できる忠信の行為ですが、命を守るために死ぬ、あるいは命を守るために殺すというのは、客観的に見れば、矛盾した、不可思議な行動なのかもしれません。

 しかしながら、人間の歴史というものは、ある意味、そんな矛盾した行動の蓄積とも言えるもの。本シリーズはこの後、鎌倉から室町、戦国時代まで続いていくようですが、その歴史の中で白狐魔丸が人間の存在をどのように理解していくのか、あるいはしないのか。児童文学ではありますが、なかなか読み応えのあるシリーズとなりそうです。


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