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2007.01.17

「顔のない侍」 顔をなくして己を得たヒーロー

 徳間文庫の幻の時代小説発掘企画第二弾というべき作品が、この「顔のない侍」。題名だけ見ると一瞬ホラーかと思ってしまいますが、さにあらず、死を装って己の存在を消した隠密ヒーローが、痛快な活躍を繰り広げる時代活劇です。

 主人公・伊勢小弥太は、田沼意次の下で活躍した腕利きの隠密。しかしその切れ者すぎる点が災いして、海上で斬首に処されてしまう場面が、本作のファーストシーンであります。もちろんここで本当に死んでしまったら物語が続かない、実は周囲と示し合わせての大芝居で死を装い、己の存在を消して「顔のない侍」となった小弥太は、いわば影の影として大手を振って(?)活躍を始めます(ちなみに小弥太の最大の武器はその巧みな変装術であり、老若男女を問わず顔と姿を変えて活躍する彼は、この意味からもまさに「顔のない侍」であります)。

 そんな彼の前に立ち塞がるのは、田沼と対立である松平越中守の配下の殺人剣士・八束六介。陰の存在ながらどこまでの陽性の小弥太とは正反対の、陰の陰ともいうべき人斬りで、幾度となく小弥太と激突することとなります。
 また、六介とは違うベクトルで小弥太と対立するのは、大目付配下の隠密・三枝大蔵。元は小弥太の友人で、小弥太が死を装う際にも片棒を担いだ仲ながら、あくまでも公儀隠密としてお役目大事な彼にとって、奔放に動き回る小弥太は何とも煙たい存在で…ある時に対立し、またある時には手を組むその微妙な距離感の関係が、いかにもプロフェッショナル同士、という感じで実に良いのです。

 そんな彼が挑むのは、蝦夷地から名古屋・京まで各地を叉に掛けるバラエティに富んだ冒険の数々。隠密であれば主の命の下、あちこちを飛び回るのは当然…かもしれませんが、しかし、小弥太の場合は、そこが大分異なって見えます。
 元々が公儀屈指の隠密ながら、今は公の身分を失った彼にとって、身分やらお役目やらの軛などは大して意味を持たないもの。田沼の命に従っているのも、たまたま向いている方向が同じだからに過ぎず、そういう意味では、彼はスパイというよりもむしろ冒険児と言えるでしょう。

 そして――陰の世界で生きてきたスパイが、己のアイデンティティーの根幹であり唯一の拠り所である「顔」――武士においては「名」と言い換えてもいいかもしれませんが――を失う。普通であればどうにも暗い物語となるべきところが、むしろ主人公はそれを逆手に取って、この世の誰にも縛られない「個」として胸を張って歩き始めるという逆転が何とも痛快であり、小弥太の派手な活躍の陰に隠れがちではありますが、本作の大きな魅力の一つだと思います。
 確かに、真の自己を確立するために己を捨てざるを得なかったのは封建社会の限界ゆえであり時代性というものでありましょうが――尤も現代においてその状況がどれだけ変わったかは怪しいものですが――それでもなお、この小弥太の生き方は時代を超えて魅力的であり、そしてそこに本書が決して短くない時間を超えて復活した意味の一つがあるようにも思えたことです。

 と、ずいぶんと大上段に振りかぶってしまいましたが、そんなことを抜きにしても純粋に時代エンターテイメントとして楽しい本作。数多くの名作を世に送りながらも、現在では残念ながらそれにふさわしい知名度があるとは言えない村上先生の再評価につながってくれればと願う次第です。


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