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2007.03.07

「延暦十三年のフランケンシュタイン」 鏡としての超越者空海

 天才・山田正紀があの弘法大師空海の物語を伝奇的手法で描いた本作、以前から強く興味を持っていたのですが、ようやく読むことができました。
 本作は全四話からなる連作短編集のスタイル。「経師三嶋大人の告白」「沙門広達の回想」「偸盗千手丸の懺悔」「夢占師乙魚の夢解き」と、語り手を毎回変えながら、それぞれの角度で物語が展開されることによって、独自の空海像が浮かび上がることとなります。

 第一話「経師三嶋大人の告白」は、ふとした気の迷いから大盗・千手丸の一党に加わってしまった平凡な男の視点から、空海にまつわるこの奇怪な物語が語り起こされます。
 当時既に高名を馳せていた最澄を堕落させんとしながらもその法力の前に敗退した千手丸とその情婦・玉依。それでも再度の襲撃を図る彼らの前に現れたのが、生まれながらに強大な呪力と不思議な魅力を持つ青年・真魚でありました。結局、真魚の力で一矢報いながらも、再び破れた一党ですが、それがきっかけで真魚は仏道に入門する決意を固めます。が、仏道に専心するには彼の心は俗にすぎる。そこで彼は、呪術でもってもう一人の自分を造り、それに己の負の部分を押しつけようとするのですが…
 ここで登場するのが本作のタイトルである「延暦十三年のフランケンシュタイン」の由来である禁断の秘術。打ち捨てられた屍から新たな命を生み出すその術は、伝奇ファン・奇談ファンであればお馴染みのあの術でありますが、生まれたもう一人の真魚は、創造主である真魚を恐怖させると何処かへ消えて――

 以降、二人の真魚を巡り、物語が展開されていくこととなります。真魚が空海の幼名であることをご存知の方は多いと思いますが、さて本物の真魚と造られた真魚、一体どちらが後の空海となったのか? 後世に流布する大師伝説も絡んで物語は変転し、空海が入定するまで――いやその後に至るまで語られることとなります。
 ここで面白いのは、各話の語り手、さらには玉依や、千手丸のライバルである盗賊・蝮王など…物語の登場人物のほとんどが、真魚の存在により、大なり小なり運命を狂わされていること――それも、あたかも自分の中に、それまで知らなかった「もう一人の自分」が生まれたかのように。
 ここで一つ白状すると、恥ずかしながら私はメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」を未読なのであまり偉そうなことは言えないのですが、しかし本作はフランケンシュタインテーマというよりもむしろドッペルゲンガーテーマ、例えばポーの「ウィリアム・ウィルソン」などにに通じるものがあるように感じられた次第です。

 さらにも一つ聞いた風なことを言わせていただければ、本作の背景には、山田正紀お得意の「神」、超越者の影が揺曳しているやにも感じられます。
 山田作品の超越者は、単にそれ自体として描かれるよりもむしろ、それに対置される人間、平凡な人間の存在を映し出す鏡のような存在として描かれている(ことが多い)と常々感じていましたが、本作における空海の姿が、それに重なって見えてくるのです。単にその超常的能力のみならず、その仏道の巨人たる生きざまが常人を遙かに超えた超越者・空海に触れるとき、人は彼の中にもう一つの自分の姿、鏡像を見るのではないか、と…

 実を言えば本作は、空海の姿を描くと同時に、いやそれ以上に、語り手たちに代表される平安時代の平民、ごく一般的な普通の人間たちを描くことに力を注いでいる作品です。最初はそれに違和感を感じないでもなかったのですが、上記のように山田作品的超越者としての空海、鏡としての空海――そして本作では、超越者たらんとした空海自身が鏡像と化してしまうのが皮肉であり、魅力なのですが――の存在に気付いたとき、これもまた実に山田正紀らしい、ヒューマニティに満ちた作品であったと得心できた次第です。


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