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2008.01.12

「風魔」 小太郎が往く自由の中道

 風魔忍びの中でもその常人離れした巨躯と体術で、風の神の子と呼ばれる小太郎。時あたかも戦国末期、主家である北条家のために力を尽くす小太郎らだが、衆寡敵せず小田原城は落城、小太郎は野に下ることとなる。豊臣と徳川の間で緊張が高まる裏で繰り広げられる陰険な謀略戦の中、小太郎は自由のための戦いを繰り広げる。

 風魔小太郎と言えば、人口に膾炙した忍者の一人。怪物のような風貌で剽悍な風魔一族を率いて北条氏に仕え、開府したばかりの江戸を荒らし回った末に捕らえられ、磔となったという、ある意味戦国の忍びの末路を体現したような人物です。
 このような来歴ゆえか、フィクションの世界では主役というよりはむしろ脇役・悪役としての登場が多い小太郎。しかしそれが宮本昌孝先生の筆にかかれば一変、爽やかな男たちの生きざまを描かせれば当代随一の作者らしく、忍者離れした一世の好漢として、鮮やかに小太郎というキャラクターを再生させています。

 上にも書いたとおり風魔と言えば北条の忍者。そのため、本作でも北条と豊臣の戦が中心となって描かれるのかと読む前は思っていましたが、それは作中ではあくまでもプロローグ。メインはその後の、戦国時代が終焉を迎えようとする中、肉体のみならず精神においても当時の規格外の存在である小太郎が、いかに己を貫き通すか、という物語でありました。

 作中での小太郎の立ち位置は――北条家、あるいは幼なじみであり最後の古河公方である氏姫という一応の忠誠の対象はあるにせよ――己自身の道を貫く自由人。それは忍びという存在とは一見相容れないもののようにも見えますが、戦国時代の忍びが、特定の主を持たず己の技を売っていた傭兵的存在であることを考えれば、小太郎は最後の戦国人と呼べるかもしれません。

 一方、小太郎と対する存在は、家康のためであればどれほど汚い手でも使う柳生又右衛門に代表されるように、権力に身を委ねるところに己の居場所を求める者か、あるいは己の業前に淫した唐沢玄蕃や欲望のままに悪行を重ねる神坂甚内のように我欲に動かされる者たち。
 前者は「私」を無くし、後者は「私」を暴走させ――そしてその中道を往くのが小太郎、と言えるでしょう。

 そして、この「私」の扱い様こそが、各人の「自由」観とイコールであることは言うまでもありません。
 言い換えれば、本作で繰り広げられる戦いは、「自由」を巡る戦い。
 考えてみれば戦国という時代は、既存の秩序が崩壊した時代ではあるもの、ある意味極めて自由な生き方が許される時代でありました。
 その自由が、徳川幕府の樹立により統一的な社会体制の中に組み込まれていくという、歴史上の大きなうねりの、本作はある意味象徴と言えるかもしれません。

 もっとも、この「私」「自由」といったものの扱いにまつわる問題は、この時代特有のものではなく、いつの時代にも普遍的なもの。
 ことに、表向きは平和でも、内実では不安定な現代という時代においては、小太郎の生きざま――自己を律し、他者を傷つけない自由の中道は、実に魅力的に映ることです。


 痛快な伝奇時代ものとしての楽しさは言うまでもなく――その中で人としての理想的な生き方を示してみせた本作。いささか大部ではありますが、自信を持っておすすめできる作品です。


「風魔」(宮本昌孝 祥伝社全二巻) 上巻 Amazon/ 下巻 Amazon

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