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2010.03.13

「僕の世界」 時代小説はセカイを否定できるか?

 とある藩で同心を務める「僕」は、周囲との接し方に違和感を感じ、浮いた存在となりながら日々を送っていた。近習組の侍を刺殺した破落戸を追うことになった僕は、退屈しのぎに出かけた賭場でその男と出会うが、男は殺した侍の妻に複雑な愛情を抱いていた…

 先日、前島賢氏の「セカイ系とは何か」を読みました。セカイ系というヌエのような概念に対し、その成立から現在に至るまでをわかりやすく語った好著ですが、読みながら私の頭に浮かんだのが、実は本作でした。

 本作は菊地秀行先生の時代ホラー短編「幽剣抄」の一編。四冊目の短編集「妻の背中の男」に収録されている作品ですが、これが実はシリーズ中の他の作品と比べても、いや、時代小説全体の中でも、実にユニークな内容の作品なのです。

 本作の、町方同心が、ある侍を殺したやくざを追った末に…という内容自体は、珍しいものでは全くありません。
 しかし本作が通常の時代小説と全く異なるのは、物語を一人称で進めていく主人公「僕」が、彼の住まう「世界」に、大きな違和感を抱いている点にあります。

 江戸時代の社会のあり方、武士という生き方…その時代特殊の事象に対して、ある種イデオロギー的な見地から、あるいは内に抱えた虚無感から、登場人物が違和感を抱くというのは、これはさほど珍しいものではありません。
 しかし、「僕」が抱く違和感には、そうした明確な理由がありません。強いて言えば、「馴染めない」がゆえのものなのであります。

 時代小説のキャラクターは――実は未来人だったというオチでもない限り――その世界観は、彼が生きる時代に根付いたものであることは言うまでもありません。その世界に違和感を抱こうと、否定しようと、それはあくまでもその時代の人間の立場に限定されます。
 しかしながら、本作の「僕」には、そうした縛りはない。強いて言えば彼の視点は、現代人のそれに近いと言えますが、しかしそれは、単に書き手がヘボで現代の思考回路でしか小説を描けないというものでは、もちろんありません。

 思えば時代小説は、確たる「世界」の存在を前提に描かれます。それは(若干の改変は許されても)不変の存在であり、そしてキャラクターはみなその存在に疑いや違和感を抱くことがない…それが時代小説というジャンルです。
 それを前提の段階から否定しつつも、それでもなお時代小説として成立させる…そんなアクロバットを、本作は、「世界」を、その中で生きながらも、そこに強烈な違和感を抱く「僕」の視点から描くことで達成しているのです。

 先に述べたとおり、本作は「僕」の一人称で進められていきます。この世界に真から馴染めない彼の自意識を通すことにより、この「世界」を否定し、そしてそれにより、「僕」の抱く茫漠たる孤独感を――それは実は、全ての時代に生きる読者、つまり「僕」に共通のものなのですが――浮き彫りにしてみせる。
 私は後にも先にも、このような奇妙な時代小説を読んだことはありません。


 さて、冒頭に述べた「セカイ系」の中に本作が含まれるものとは、私はもちろん言いません。
 本作は、タイトルこそ共通項が感じられるものの、狭義でも広義でも、に該当するものではないでしょう。

 しかし、それでもなお、「世界」を捨象(否定)することにより自分の存在を捉えようとする――言い換えれば、そこに自分の居場所を見つけようとする――自意識の固まりである「僕」の存在は、セカイ系の根底に流れるものと、共通するものがあると、そう感じられるのです。

 牽強付会は百も承知、読んだ本にすぐ影響されおって…と思われても仕方のないことですが、それが作者の意図したことかどうかはどもかく(そして偶然ならばなおさら)、僕はこの共通項に、非常に心引かれるものを感じた次第です。

「僕の世界」(菊地秀行 角川文庫「幽剣抄 妻の背中の男」所収) Amazon
妻の背中の男―幽剣抄 (角川文庫)

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