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2010.05.27

「絵伝の果て」 楽園を遠く離れて

 時は足利八代将軍の頃、家督相続の試験に落ち、廃嫡されてしまった貧乏公家の長子・十川迪輔。再試験の条件として祖父が提示したのは、燃える塔と鬼の姿が描かれた絵巻物の一部の絵解きだった。かくて迪輔は、田舎武者の坂城、河原者のナガレとともに京を彷徨うことになる。果たして鬼の正体とは…

 応仁元年(1467年)の京を舞台に、鬼の一族にまつわる不思議な絵を求めて彷徨う若者・迪輔の姿を描いた不思議な小説であります。

 その絵は、もとは一つの絵巻物として描かれていたものが、何枚かに引き裂かれ、散逸したもの。
 炎上する大塔と、そこで略奪を働く鬼たちの姿を描く一枚を手にした迪輔は、家を継ぐために、絵巻の残りを探し、その意味を説き明かすことを命じられます。

 元々迪輔の家は、蹴鞠を得意とする家柄、彼自身も蹴鞠の他の能はなく、家の外の世界も知らない浮世離れした生活を送っていたものが、にわかに慌ただしく物騒な俗世に放り出されることとなります。
 そんな彼の相棒となるのは、貴族の姫君と結ばれることを夢見る田舎武者・坂城と、得体のしれない異相の河原者・ナガレの二人。かくて、生まれも育ちも、身分も違う三人が、共通の目的のために奔走するというお話であります。

 本作の舞台となるのは、室町も中期、下克上の萌芽が見え始めた時代。
 正しい仏法の終末である末法の世を迎えてから早400余年が過ぎ、百王説(いかなる王朝も百代までで滅びるという一種の終末論)の予言の時も過ぎて、王法までもが終末を迎えたと信じられた――そんな時代であります。

 その時代の中で三人が追うことになるのは、鬼が、そして猿や犬が、人の世を騒がす姿を描いた不思議な絵巻物。
 秩序の時代が終わり、新たな混沌の時代が始まることを予言するかのようなその絵巻物に誘われるように、三人は、古い秩序の象徴とも言うべき京の諸相を目撃することになります。

 そして本作は、必然的に三つの顔を持つことになります。
 当時の社会・政治情勢を複眼的に描き出す歴史小説。「鬼」の正体と絵巻物の謎を、民俗学的知識も動員して解き明かす時代伝奇小説。そして、迪輔が時に命を危険に晒すような経験を積み重ねるうちに成長していく青春小説と…

 その複雑さの副作用と言うべきか、螺旋階段をゆっくりと下るかのような構造の物語に、いらだちを感じる読者もいるかもしれません。
(その意味では、終盤の男塾的面白殺人スポーツバトル展開は、階段を滑り落ちたような印象か)
 しかし個人的には、その物語の複雑さと、先の見えない展開――もっとも、設定的に落としどころは一つしかないのですが、――こそが、舞台となる時代の空気を、何よりも的確に浮かび上がらせていると…そう思えますし、そこに魅力を感じるのです。


 タイトルの「絵伝」という言葉に込められたもう一つの意味は、あまりに直截的かもしれません。

 しかし、仏法も王法も失い、ただ己の力を頼みに生きるほかなくなった時代の人々(あるいは鬼や猿、犬)と、神から楽園を追われた人類の祖を重ねて見るのもまた一興というものでしょう。
 現代に生きる我々は、彼らの子孫であることは間違いないのですから――

「絵伝の果て」(早瀬乱 文藝春秋) Amazon
絵伝の果て

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