「天平冥所図会」 歴史的事件の中に生の素晴らしさを見る
時は天平。紫微中台の役人・葛木連戸主は、妻の広虫とともに、出世とは無縁ながら実直に職務を果たしていた。しかし大仏建造、正倉院への宝物奉献、恵美押勝の乱、宇佐八幡宮神託事件と、幽霊・神様も入り乱れて次々と起こる騒動の数々。そこに巻き込まれた戸主は、解決のために奔走する羽目となるのだった。
以前から気になっていた「天平冥所図会」を、文庫化を気に手に取りました。
折しも平城遷都千三百年、なかなか良いタイミング(?)ですが、これが実に素敵な作品でありました。
天平期、奈良時代というと、唐の影響を受けて華やかな文化が花開く一方で、疫病や戦乱が相次ぎ、宮廷で陽に陰に政争が繰り広げられた時代という印象があります。
本作は、その時代をある意味象徴する、四つの出来事を題材としています。しかし本作の優れた点は、それらを、出来事の当事者たる皇族・貴族たち――つまり当時の権力者たち――の目線ではなく、ユニークな二つの要素から描いている点にあります。
その一つは、戸主と広虫に代表される、下級役人の視点で描かれていることであります。
宮中で起きる様々な事件・権力闘争は、単にそれを引き起こした当事者のみならず、周囲の者にも当然ながら影響を及ぼします。
それは、単に人事面のみならず、それ以上に政治・行政における実務面に、大きな影響を及ぼしたはず。
冷静に考えれば当然のことではありますが、しかし蜘雲上人からの視点ではすっぽり抜け落ちがちなこの部分に軸足をおくことにより、ある意味相対的に、それでいて地に足の着いた形で歴史的事件を描写すると同時に、歴史の中に、たとえ千三百年前であっても変わらぬ庶民の姿があったことを感じることができるのです。
そしてもう一つは、幽霊や神様といった、ある意味本当に雲の上の存在が物語に絡んでくることです。
本書に収録された四つの物語いずれにおいても登場し、事態をよりややこしいものとしてくれる神霊の類(というより後半二話では…)。
現実世界の政治むきの話の中に、彼ら超自然の存在が出てきても…と思われるかもしれませんが、しかし、文字通り現実離れした彼らが物語に絡むことによって、これまた相対的に現実を描くことを可能としているのです。
これら二つの視点を導入することによって、雲上人の姿しか見えてこなかった歴史の中に、無数の名もなき人々が生き、働き、努力してきたことを浮き彫りにすることに成功した本作。
その本作ならではの視点が最も良く表れているのが、第二話「正倉院」でしょう。
正倉院に聖武天皇の遺品が奉献されたことは、歴史的事実として我々も良く知るところですが、そのために、実際に汗を書き、手を動かしたのは、戸主ら下級役人であります。
純粋な哀悼の心から始まった事業の背後で入り乱れる醜い政治的思惑に翻弄されつつも――挙げ句の果てに過労死した役人の亡霊まで出てきて――自分たちの良心に忠実に、職務を遂行しようとする…
そんな彼らの姿を描いたこのエピソードは、まさに正しい意味での官僚小説といった趣であります。
しかしそれ以上にこのエピソードは、そして本作全体は、官僚に限らず、人の幸せのために、己の為すべきこと、できることをコツコツと真面目に行うことの素晴らしさを――と、こうして文章にすると実に気恥ずかしいことを、ユーモアのオブラートに包んで――教えてくれるのです。
そして、本作のラストにおける戸主の言葉は、そんな想いをはっきりと具体化したものでしょう。
歴史的事件を地に足の着いた形で描き出し、そしてそこから等身大の生の素晴らしさを導き出す…本作は、そんな物語であります。
「天平冥所図会」(山之口洋 文春文庫) Amazon

| 固定リンク

コメント