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2013.01.04

映画「るろうに剣心」(その二) 描かれたもの、描かれるべきだったもの

 昨日の続き、映画「るろうに剣心」の感想の後編であります。確かに本作は、原作の良い意味の漫画らしさを巧みに映像として再構成してみせた作品ではありますが、それでは本作が百点満点、諸手を挙げて歓迎できる内容かと言えば――

 それは残念ながら否、というのが私の正直な感想であります。

 というのも、作品全体のムードが――特に原作と比べると――あまりに暗い。
 もちろん、剣心の背負っているものを考えればあまり脳天気な物語にはできないのはむしろ当然ではあります。本作が一般向けの映画であることを考えれば、原作とはまた違った印象になることも、無理はありません。

 それをわかった上であえて暗い、というのは、原作が持っていた明るさを生む要素が描き切れていないのではないか――そしてそれが、「るろうに剣心」らしさを殺いでいるのではないか、と感じたためであります。

 本作の暗さ、重苦しさの源は、端的に言ってしまえば、幕末、あるいは明治の陰の部分、負の部分を背負ったキャラクターたちでありましょう。
 本作のメインキャラクターと言うべき剣心、斎藤、刃衛、観柳――彼らは、それぞれの理由はあるものの、かつて、あるいはいま人を殺し、殺さずにはいられない存在として共通する存在であり、皆それぞれに時代の鬼子、そして同時に時代を象徴する存在なのですから…
(左之助はまだ陽性のキャラクターではありますが、しかし彼も鬼子であることは違いないでしょう)

 しかし「るろうに剣心」という物語は、彼らの存在を、その生き様を完全に否定しないまでも、別の道があることを示します。
 それは薫の言う「活人剣」であり、そしてその担い手であり、明治という新しい時代の光の部分、陽の部分を象徴するのが薫であり、そして弥彦なのであります。

 もちろんそれは、劇中で語られるように、「甘っちょろい戯言」に過ぎないのかもしれません。しかし剣心が敢えてそれを選び、そしてそれが、クライマックスで剣心の魂と薫の命を救ったことを考えれば、その美しい甘っちょろさに力を入れて描くべきだったのではないでしょうか。

 しかしこの映画版では、その部分の要素があまりにも弱々しく感じられます。それは(まことに残念ながら)役者の力量に起因する部分もありましょうし、脚本・演出の都合による部分も大きいでしょう(正直なところ、弥彦のキャラクターは漫画だからこそ描けるもの、という印象はあります)。

 それでも描きようはあった――薫の叫びはもっとドラマチックに描いてよかったし、ラストで辛辣な言葉を投げかける斎藤に対し、剣心はもっと力強く己の信念を語ってよかったと、そう感じるのです。


 たとえ真実ではなくとも、そしてそれを貫くことが途方もなく辛いということを知っていても、「甘っちょろい戯言」を選び、そしてそれを戯言に終わらない真実にしようと歩み続けること。

 「るろうに剣心」という作品が、剣心というキャラクターが描こうとしていたものは、そこにあったのではないかと――はなはだ逆説的にではありますが――本作を通じて再確認させられた次第です。


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