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2013.10.25

「嶽神伝 無坂」上巻 帰ってきた山の者、帰ってきた嶽神

 武田晴信が父を追放し、信濃攻略を狙っていた頃、山の民の一つ・木暮衆の無坂は、諏訪頼重の娘・小夜姫を救ったことが縁で、諏訪家と関わりを持つ。家族や里の仲間たちと静かに暮らす無坂だが、武田家侵攻の余波は山にも及び、不穏な動きが彼らのもとにも迫ろうとしていた…

 長谷川卓の新作は「嶽神伝 無坂」――久しぶりの嶽神、久しぶりの山の民ものであります。
 久しぶりと言ったのはほかでもない、最近では奉行所ものがメインだった作者ですが、「血路 南稜七ツ家秘録」という山の者を主人公としたアクション時代小説で第二回角川春樹小説賞を受賞した経歴の持ち主。そしてその続編「死地」、さらに昨年文庫化された「嶽神」(旧題「嶽神忍風」)と、矢継ぎ早に、山の者ものとも言うべき作品を発表していたのであります。

 その後、先に述べたように山の者とは全く離れた作品を発表してきた(一昨年に久々の山の者もの「逆渡り」が発表されましたが、先行する作品とは趣をいささか異にする作品ではあります)作者ですが、ここに至り、「嶽神」を冠する山の者ものが登場したのですから、以前からのファンとしてはたまらないものがあります。

 さて、この上巻の舞台となるのは、天文11年(1542年)の信濃。前年に父・信虎を追放した武田晴信が、信濃に勢力を伸長せんとしていた時期であります。
 本作のタイトルロールである山の者・無坂は、諏訪に暮らす山の者・木暮衆の小頭の一人で、中年となっても健脚で知られる男。そんな彼は、かつて偶然諏訪頼重の娘・小夜姫が高熱を発したのを救ったのを縁に、諏訪家と縁を結ぶのですが…それが物語に大きく関わることとなります。

 というのも諏訪家は晴信にとって諏訪攻略の最初のターゲット。妹が頼重に嫁していたにもかかわらず、その油断を突いた晴信により瞬く間に諏訪家は滅亡、小夜姫は諏訪御寮人として晴信の側室に――というのは史実でありますが、無坂は、命を助けた者は見守らねばならぬ、という山の掟に従い、姫や頼重の側室・小見の方の安全を図るため、危険を承知で諏訪家に走るのであります。


 …が、この武田家と諏訪家の戦い、武田家の諏訪攻略は、(少なくともこの上巻では)物語の遠景であり、分量としてはさほど多いわけではありません。
 この物語の大半を占めるのは、無坂たち山の者の暮らし――彼らの里での暮らし、他の山の者との交流、出稼ぎの様子等、彼らにとっての日常が描かれるのであります(特に出稼ぎについては、塩商人に雇われ、馬子の先導役兼警護役を務める「足助働き」のくだりが実に興味深い)。

 かつて発表された山の者ものは、ほとんどが伝奇ものですが、本作においては伝奇性はほとんどありません。強いて言えば、山を彷徨い、出会った者の命を吸い取る「影」の存在が、唯一ファンタジックな要素でありましょう。
 その意味では寂しさを感じなくもないのですが――しかしそれでも本作は実に面白い。山の者たちの、自然と一体化した、しかし里を中心とした社会性を持った暮らしの様、たとえ見知らぬ他人であっても山中で難儀にあった者は決して見捨てぬ姿など、実に滋味深く、文字通り地に足の着いた人間の暮らしとして、ある種魅力的に映るのです。


 しかしそれはもちろん、山の者とその暮らしを、単なる理想的な存在として一面的に描くものではありません。武士や里の民からの差別、厳しい自然との闘い、時に人を見捨て、あるいは自らが見捨てられる厳しい掟――
 そして彼らの暮らしも一様ではなく、山の暮らしを捨てて武士に仕えようとする者、他の里を襲う凶族となり果てた者など、様々な山の者の姿が描かれているのです。

 この上巻の段階では、まだ物語は大きな展開はありませんが、下巻では、ここで見られた幾つかの動きが、巨大なうねりとなって現れることでしょう。
 その中で無坂がいかに生きるのか――そして伝説の嶽神がどのような形で描かれることになるのか。下巻ももちろん、すぐに手に取ったところであります。


「嶽神伝 無坂」(長谷川卓 講談社文庫) Amazon
嶽神伝 無坂(上) (講談社文庫)

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