「薩州隠密行 隠島の謎」 忠敬と重豪、公と私のぶつかり合いの先に
幕府の協力を得て全国の測量を行う伊能忠敬の裏の顔は、幕府の協力と引き替えに諸藩を探る隠密だった。今度は密貿易の疑いがある薩摩藩に向かうこととなった忠敬。島津重豪が実権を持つ薩摩藩は忠敬に友好的な態度で接するが、しかしその背後にはある思惑があった…
「この時代小説がすごい!」も好調らしい宝島社ですが、最近は時代小説の出版にも力を入れている様子で、主に新進作家による作品を文庫書き下ろしスタイルで刊行しております。
その最新の一つが、本作「薩州隠密行 隠島の謎」であります。
本作の主人公は伊能忠敬――言うまでもなく、江戸時代後期に日本全国を測量し、日本初の正確な実測地図である(実際の完成は死後となりますが)「大日本沿海輿地全図」の完成に尽力した人物であります。
元は佐原の商人/名主でしたが、50歳で隠居した後、江戸に出て幕府天文方の高橋至時に師事し、その測量技術が認められて、最終的には幕府の事業として全国の測量を行うようになった…というのは史実ですが、本作では、その背後で彼が諸国の情勢を探る隠密の役割を担っていた、という設定で物語が展開していくこととなります。
弟子である間宮林蔵が実際に隠密であったように、各地を実際に歩く測量家が隠密となるというのは、さほど珍しいアイディアではありませんが、本作において忠敬が探索する先が、薩摩藩というのは実に面白い。
「薩摩飛脚」という語があるとおり、薩摩藩は隠密にとっては死地ともいうべき場所。しかもこの当時の薩摩は、反対派を粛清した先々代の藩主である島津重豪が未だ実権を握っていた、なかなかに波乱に富んだ時期であります。
この設定の時点でまず実に魅力的な本作でありますが――しかし作品の雰囲気自体は、落ち着いたものとなっているのがまたユニークであります。
というのも、忠敬が隠密となったのは、あくまでも測量の協力を幕府から取り付けるためであり、そして友人ともいえる時の老中からの懇請があったため。彼の本文はあくまでも学者、測量家なのであります。
そして本作の舞台となる当時の薩摩藩の特異な事情が彼のキャラクターと結びつくことで、物語は展開していくこととなります。
蘭学を積極的に導入し、藩の近代化を積極的に推し進めた島津重豪。しかしその強引とも言える手法は藩の財政状況を危機的な状況に陥れて周囲の反発を招き、それが「近思録崩れ」と呼ばれる反対派の粛正を招いて多くの血が流された――
重豪はもちろんのこと、忠敬の案内役を務めることになる若侍・樺山隼之助ら、薩摩側の登場人物は皆、この状況を背負った存在として描かれるのです。
その結果、本作においては、忠敬の隠密行以上に、公と公、公と私の相剋が描かれることとなります。天下国家のため、藩の安寧のため、そして個人の夢のため――登場人物それぞれが抱く信念。そのぶつかり合いこそが本作の本質であり、読みどころであると感じます。
そしてこの点において本作が魅力的に感じるのは、重豪が天下国家のためという大義名分を掲げるのに対し、主人公たる忠敬は、妻との約束のため、師への恩義のため、そして自らの情熱のためという、あくまでも非常にパーソナルな動機のために行動する点にあります。(特に妻との約束の内容は、忠敬の地図作りの情熱の原点として極めて美しい)
確かに、公は重んじるべきではありましょう。しかしそのために他の公を、そして公の中の私を犠牲にしてよいものか?
そんなこちらの想いを代弁するように、公の重みは承知しつつも(そしてやむなく幕府側の公のために働きつつも)、個人の夢という私を以て重豪と対峙する忠敬の姿は、まことに魅力的な、そして爽快なものとして感じられるのです。
信念のぶつかり合いが、ほとんどそのまま登場人物の台詞として語られるという点はいかがなものかとは思いますが、しかし、時代ものとして魅力的な舞台設定と、いまこの時代にも通じる公と私の在り方を描いた点は、大いに評価したいと思います。
この忠敬を主人公とした続編も読んでみたい――そう感じる作品であります。
(例えば公と私の在り方という点ではある意味対照的な間宮林蔵との関係など、面白いと思うのですが)
「薩州隠密行 隠島の謎」(百舌鳥遼 宝島社文庫) Amazon

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