「東天の獅子 天の巻・嘉納流柔術」第4巻 武術家たちの心を繋いだ先にある道
明治時代、柔道という新たな武術の誕生を描いた夢枕獏の巨編「東天の獅子 天の巻」の最終巻であります。琉球唐手との死闘、突然の友の死、そして再びの警視庁武術試合――様々な出来事を経て、西郷四郎はどこに向かうのか。一つの旅の終わりと始まりであります。
冒頭で描かれるのは、前の巻からの続き――講道館の柔道家たちを次々と襲う謎の武術家・梟の登場から始まった因縁の物語。
梟が御式内の遣い手を探していると知った四郎は、自分以外のもう一人の遣い手・武田惣角を訪ね、やはり彼がかつて琉球に渡ったことが発端であることを知るのですが…
ここから展開されるのは作者十八番の過去話ですが、これがまた抜群に面白い。
もうこの部分だけで一つの作品になるのではないか…というのはさておき、これまで剣呑で、人間味に乏しい格闘マシーンのようにも見えた惣角の秘めた思いがふと垣間見えるシーンもあり、この辺りの呼吸はさすがとしか言いようがありません。
そしてこの面白い琉球編をある意味導入として始まるのが、本作においては二度目の継承武術試合。
前回同様四試合行われたうち、講道館から出場したのは四郎と横山作次郎ですが、四郎の相手は琉球唐手の達人・東恩納寛量、そして横山の相手は、古流柔術の巨人・中村半助――いずれ劣らぬ好カードであります。
さらに物語を盛り上げるのは、戦いの中で己の道に悩み、迷い、ついには戦いが怖くなってしまった四郎の姿。まともに試合うことすらできなくなった彼を再起させたものは…
いや、ベタと言わば言え。この辺りから物語はほとんどあらゆるシーンがこちらを全力で泣かせにかかってくるという恐るべき状態に。いやはや、本作を読みながら人目を憚ることになるとは。
振り返ってみれば、この「東天の獅子 天の巻」という物語は、シンプルといえばシンプル、複雑といえばそうも言える物語であります。
物語の中心には勃興期の講道館柔道の姿が、そしてその講道館で活躍しながらも、迷い悩みながら己の道を求める西郷四郎の姿があります。しかしそれだけにとどまることなく、本作は融通無碍に視点を、中心となる人物を変え、物語を綴っていくのです。
そういう点からすれば、厳しい言い方をすれば、ある意味まとまりのない物語ではあるのですが、しかしそれがまったく気にならないのは、本作で描かれる格闘シーンの熱さ激しさはもちろんのこと、そこに流れる人の想いと、それを結びつけるものとしての武術、柔術/柔道の存在があるからにほかなりません。
そして本作の真に優れた点は、時に死合とすら表すべき戦いの中でも武術家同士が心を通わせあう様を、柔道という武術が、一種のシステムとして取り込もうとしていた、取り込もうとする思想を持っていたと示していることではありますまいか。
武術が人格形成に役立つというのは、これはかなりの部分神話でしょう。同様に、激しい戦いを繰り広げた者同士が心を通わせ、親友のような間柄となるというのも、多分に理想と感じられます。
しかし同時に、我々の中に、それらを――特に後者を期待するものがあるのもまた事実。それがあるからこそ、我々は殺し合いや技比べに止まらない格闘技フィクションを求め、愛するのでしょう。
そして本作に登場する嘉納治五郎は、そんな我々の理想を、現実の武術の中に求め、それによって新たな意味と価値を武術に与えようとした人物として描かれます。
お互いの人間が、互いの覚悟を試し合い、人としての心の在り方を磨く場としての柔道――それを初めて自覚的に取り入れたのが柔道だと、嘉納治五郎であると、本作は描くのです。
本作において、治五郎の登場する場面はさまで多くはありません。しかし彼の生み出したこの思想が物語を包み、作り出していることを思えば、本作は、治五郎の物語とも言えるでしょうか。
四郎の物語の終わりを以て、本作は一応の結末を迎えます。しかしもちろん、講道館柔道と、そこで己を磨く者たちの物語はまだまだ続きます。
結末で四郎の前に現れた前田光世を主人公とする物語――「東天の獅子 地の巻」は、いずれ必ず書かれるべきものでしょう。
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