« 『天地雷動』 結果が分かっていても面白い長篠の戦 | トップページ | 『忍者物語』(その一) 史料に残る忍者、史料に残らぬ「真実」 »

2015.01.19

『修羅走る 関ヶ原』 「死」を越える「義」を求めて

 今回も、昨年のベスト10に挙げたにも関わらずまだこのブログでご紹介していなかった作品であります。昨年惜しくも亡くなった山本兼一が、最後に遺した長編、関ヶ原の戦の開戦直前から決着までの長い一日を、参加した武将一人一人の視点から、一種のリレー形式で描いた大作であります。

 戦国時代、最初で最後の大戦ともいうべきものであり、東軍西軍合わせて十万の軍勢を率いる数々の将が、それぞれの想いを込めて激突した戦である関ヶ原の戦。
 この戦については先日も取り上げましたが、その東西の将それぞれに思惑と背負うものがあり、それが激突する様に、我々は大きく魅せられるのであります。

 本作は冒頭に述べたとおり、その将一人一人の視点を繋げる形で、この大戦の姿を浮き彫りにした作品です。
 その数、実に17人33章。石田三成、徳川家康はもちろんのこと、黒田長政、福島正則、宇喜多秀家、島左近、大谷吉継、明石全登、井伊直政、さらには可児才蔵、織田有楽斉、吉川広家、蒲生郷舎、松野重元、竹中重門、そして三成の臣である土肥市太郎・市次郎兄弟――

 彼らが関ヶ原において何を想い、いかに戦ったのかが、本作ではまさしく一気呵成に描かれることとなります。

 ここで正直なことを申し上げれば、武将たちの人物造形についてはステレオタイプな印象は否めません。狸親父の家康に直情径行の正則、怯懦な小早川秀秋等々……特に西軍びいきにほぼ等しい視点も相まって、昔ながらの軍記物的色彩が濃いと感じてしまう方もいらっしゃるかもしれません。

 また、雑誌連載時の原稿から作者が手を入れる間もなかったということもあり、あるいはもう少し別の形になる構想であったのかもしれません。特に各章の主人公については、もう少しバランスを取った顔ぶれになってもよかったのではないか……という印象もあります。

 しかし――それでもなお本作を読み進めるうちにただただ圧倒されるのは、作中に充ち満ちているのが、男たちの「義」と「死」であるからにほかなりません。

 本作の印象的な題名のとおり、そこに参加した誰もが修羅と化して駆け抜けることを余儀なくされた関ヶ原の戦。
 そしてその行き着く先に待つのは、相手を殺すか、あるいは自分が殺されるか――いずれにせよ、「死」以外ないのであります。

 しかし本作はその「死」に満ち満ちた修羅の巷に、それを超える価値観を見いだすのであります。
 それこそが「義」――恥を知り、利に屈せず、義を貫くこと。それを成した者は、たとえ敗れて命を落としたとしても名を千載に残す――すなわち、死を超えるのだと。

 本作の物語の中心となるのは、史実でも関ヶ原の戦の勝敗を分けた小早川秀秋らの去就――彼らが西軍にあって義を貫くか、それとも裏切って東軍に付くか、その行方であります(その中心にある秀秋の心中は描かれないというのはなかなか面白い)。
 まさにそこにその「死」と「義」のせめぎ合いがあるのであり、そして「義」を貫く者たちの美しさを、本作は強く強く訴えるのです。


 ……そこに作者の願いにも似た想いを見てしまうのは、これは作者の人生を作品に過度に投影しすぎているものでありましょうし、不謹慎ですらあるかもしれません。
 しかし、作者の生き様というものが垣間見える作品には、それだからこその感動があるのもまた事実でありましょう。

 数多くの男たちの、そして作者の生き様が込められた一冊であります。


『修羅走る 関ヶ原』(山本兼一 集英社) Amazon
修羅走る 関ヶ原


関連記事
 『決戦! 関ヶ原』(その一) 豪華なるアンソロジー、開戦
 『決戦! 関ヶ原』(その二) 勝者と敗者の間に
 『決戦! 関ヶ原』(その三) 関ヶ原という多様性

|

« 『天地雷動』 結果が分かっていても面白い長篠の戦 | トップページ | 『忍者物語』(その一) 史料に残る忍者、史料に残らぬ「真実」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/13655/60996135

この記事へのトラックバック一覧です: 『修羅走る 関ヶ原』 「死」を越える「義」を求めて:

« 『天地雷動』 結果が分かっていても面白い長篠の戦 | トップページ | 『忍者物語』(その一) 史料に残る忍者、史料に残らぬ「真実」 »