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2015.06.21

長谷川卓『嶽神伝 孤猿』下巻 「山」のような男の名

 長谷川卓の嶽神サーガの最新作、『嶽神伝 孤猿』の下巻であります。武田・上杉・今川・北条が激しく火花を散らす戦国時代の関東甲信越を舞台に、山の民・無坂の生と戦いの物語は続き、無坂は幾多の恐るべき忍びたちと対決し、そして幾多の戦国の英傑たちと対峙することとなります。

 偶然、忍びに襲われていた今川の軍師・太原雪斎を助けたことがきっかけで、拐かされた武田信虎の庶子・太郎の跡を追うこととなった無坂。
 武田の精鋭忍び「かまきり」との死闘も繰り広げながらの追跡行の末、太郎は死んだものと見做され、無坂は再び平穏な暮らしに戻ったかに見えますが……
 しかし、なおも戦国の動乱は無坂を巻き込みます。

 領国を広げるため、各地に侵攻する武田晴信。己の依って立つ義のためにこれと争う長尾景虎。武田と結びつつも、状況を虎視眈々と窺う今川家と北条家。
 さらには当主があの男に替わったばかりの織田家も関わり、入り乱れる勢力関係の中で、無坂は決して表に出ないものの、それぞれの勢力に関わっていくことになります。

 山の民として、「里」とは一線を画し、ましてやその争いに与しようとしない無坂。
 しかし、この時代に中立であるということは、その関係がポジティブであれネガティブであれ、逆に全ての勢力と何らかの関わりを持ってしまうことと同義でもあります。

 そして彼の属する山の民の重んじる「信」と「義」――非常に簡単に言ってしまえば、困った者を見捨てず、そして助けたからには最後まで面倒を見る――が、彼をさらなる深みに導くのです。

 かくて、時には小夜姫(諏訪御料人)を守るために伝説の忍びと戦い、時には山本勘介とともに越後に潜入し、時には武田と長尾の休戦調停を助け、時には雪斎を守って異形の忍びと死闘を演じ――
 好むと好まざるとに関わらず、無坂は次から次へと、歴史の影で重要な役割を演じることとなるのであります。

 その伝奇性ももちろんのこと、南稜七ツ家の二ツをはじめとする、頼もしき山の民の仲間たちと、忍びたちの激突は――巻き込まれた無坂たちには誠に申し訳ないのですが――およそ時代アクションとしては極上のレベルの活劇であり、時代エンターテイメントとして、こちらを存分に楽しませてくれます。


 しかし、本作の最大の魅力は、何よりも無坂その人の存在でありましょう。

 決して短くない期間において起きる様々な戦い、様々な事件に関わり、歴史を動かすような実在の人物たちと縁を結び、そしてまた数々の強敵たちを打ち破る……
 これだけ見れば、いかにも時代伝奇小説の主人公的であり、一種スーパーマン的なキャラクターにも感じられるかもしれません。

 しかし、無坂の素顔は、あくまでもごく普通の人間そのもの。
 一匹の猿を友として自然のただ中で暮らし、己の子供たちの成長を喜び、孫たちの誕生に目を細める……初老の男性として、人間としてごく当たり前の、喜怒哀楽を持った人物であります。

 しかし、そんな彼の存在が実にいい。己の信義のために命を賭ける人間としての好もしさ、強さは言うまでもありませんが、それ以上に、誰に対しても静かに、ニュートラルに――しかし誰よりも深い情を持って――接する、その姿が魅力的なのであります。
 少々気取った言い方をさせていただければ、辛いとき、迷ったとき、苦しいとき……そんなとき、側にいて欲しいのは無坂のような人物でしょう。

 そしてそんな彼の魅力は、「山」という存在に我々が持つイメージと重なるものがあると言えましょう。
 何よりもそれこそが、あの名を持つ者の本質であると――我々にはごく自然に感じられるのであります。
(それだけに、終盤で言葉にしなくとも良かったのでは、という印象はありますが……)


 そして前作の結末で『嶽神伝』と『南稜七ツ家秘録』とが繋がったように、今回も、更なる物語との繋がりが提示されることとなる本作。
 物語と物語の間を埋め――いや、より大きな、新たな物語を生み出すため、嶽神サーガ、山の民クロニクルというべき物語は、これからも続きます。

 そしてそれはもちろん、「嶽神」の名を持つ者の生の旅路もまだ終わらない、ということなのであります。


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嶽神伝 孤猿(下) (講談社文庫)


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