澤見彰『ヤマユリワラシ 遠野供養絵異聞』 現の悲しみから踏み出す意思と希望
時は嘉永年間、絵を描くことだけが楽しみの孤独な南部藩士の青年・外川市五郎は、同様に孤独で、絵を愛する少女・桂香と出会う。彼女を引き取った市五郎は、やがて二人で「現絵」――死者の後生を祈り、あの世で楽しく暮らす姿を描く供養絵を描くようになる。しかし彼の前には厳しい現実が……
『はなたちばな亭』シリーズや『もぐら屋』シリーズ等、妖と人間が共存する世界を舞台にしたコミカルな物語を中心に手がけてきた澤見彰久々の新作は、遠野に伝わる供養絵額を題材とした、暖かくも、重く哀しい物語であります。
供養絵額とは、この遠野を中心とした地方にのみ伝わるという、文字通り供養のための絵。死者の冥福を祈り、その死者があの世で幸せな暮らしを送っている姿を描き出す、一種の肖像画です。
本作で描かれるのは、その供養絵額――作中では「現絵」と呼ばれますが――の、代表的絵師・外山仕候の若き日の姿っであり、仕候が何を思って現絵を描いたのか、その物語であります。
兄の不慮の死から家を継ぐこととなり、江戸勤番から南部に帰ってきた青年藩士・外山市五郎。家族も持たず、出世も武道も興味を持たぬ武士らしくない武士である彼の唯一の楽しみは、絵を描くことでありました。
そんな彼は、かつて幾度か見かけた深紅の山百合を探して出かけた山村で、座敷童めいた少女・桂香と出会うことになります。
しかし彼女は歴とした人間――父親が失敗に終わった一揆に参加したことから周囲に疎まれ、半ば虐待同然に家に閉じこめられていたことを知り、桂香を連れ帰る市五郎。そして、閉じこめられていた間、絵を描くことだけが心の支えだった彼女と暮らすうちに、市五郎は二人で絵を描くようになります。
初めは成り行きに近かったその絵に描かれたのは、今は亡き人が、生きている時そのままの姿で、幸せに暮らす姿。亡くなった者をあたかも現実の存在のように描く――「現絵」はやがて評判を呼び、二人の絵は、悲しみに沈む人々の心を救っていくこととなるのでした。
……と、この前半部分を見れば、本作は、生者と死者にまつわる悲しみと喜びを描く、いわゆる「イイ話」であるように思えるかもしれません。
それはもちろん、そのような要素はありますし、そして全面的にそちらに舵を切ることもできたはずですが――しかし、本作はやがて、思いもよらぬ方向に、厳しく重い物語へと向かっていくことになります。
数年前、桂香の父が加わった一揆の後も藩政は改まらず、いやそれどころかますますと厳しくなっていく庶民の暮らし。現絵描きを通じて彼らに接していた市五郎は、同時に彼らを圧する武士階級であることの板挟みに苦しめられることになります。
そんな中、市五郎の前に現れた男が依頼した現絵。その意味するところを悟り、一度は断る市五郎ですが……
冒頭に述べたように、もともと作者は、コミカルな、あるいはゆったりとしたムードの物語を描いてきた作家ですが――しかしそれだけではありません。それらの作品の中で、時にドキリとするほど鋭い筆致で浮き彫りにされるのは、この社会や我々人間の中に確かに存在する、悲しみや怒り、残酷さといった負の部分であります。
本作は、そんな作者の作風を、ある意味極限まで押し進めたものであるといえるかもしれません。
いや、それだけではありません。作者はそこから――現実の過酷さを描き出すことに留まるのではなく、そこから一歩、たとえ小さくとも、自分の力で一歩踏みだし、その現実を変えていく意志と希望の存在をも、同時に描き出すのであります。
「イイ話」を期待する向きには、本作はあまりに重い内容かもしれません。その重さを避け、口当たりの良い物語とすることも、できないことではなかったでしょう。
しかしそれを敢えて正面から描いてみせたのは、(これも作者の作風の一つとも言うべき)生真面目過ぎるほどの誠実さとも言うべき態度ゆえでありましょう。
そしてそれは、市五郎の姿に――現の悲しみ・苦しみを絵の中で昇華することに留まらず、それを正面から受け止め、踏み出して見せたその姿に重なるものである、というのはいささか思い入れ過剰でありましょうか。
悲しみを予感させる冒頭のある記述が、希望と決意に転じる結末も見事な本作。作者の新たなる代表作となることは間違いない……心からそう感じます。
『ヤマユリワラシ 遠野供養絵異聞』(澤見彰 ハヤカワ文庫JA) Amazon

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