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2017.05.28

長谷川卓『嶽神伝 鬼哭』下巻 二つの合戦と別れの時

 山の者サーガとも言うべき作者の物語の集大成、『嶽神伝』シリーズの最新巻の下巻であります。平穏な暮らしを望みつつも、これまでに培われた人の縁により里の争いに巻き込まれていく無坂。この巻においても、彼は戦国史に残る二つの合戦の目撃者となるのですが……

 山の者として暮らしながらも、武田・北条・上杉・今川と、数々の戦国大名に関わり、幾多の合戦や争いに関わってきた無坂。
 上巻においては、長尾景虎の出奔騒動に巻き込まれ、景虎暗殺のために送り込まれた武田の忍びたちと、彼は死闘を繰り広げることとなりました。

 さらに、山の者の分断を図る武田家の陰謀とも対峙することとなった無坂ですが、面白いのは決して彼は武田家を敵とするのではなく、むしろその一部とは深い繋がりを持っていることでしょう。
 そもそも『嶽神伝』という物語自体、彼が後の諏訪御寮人を救ったことから始まった物語であるわけですが、もう一人彼とは関わりの深い山本勘助が、この下巻では大きな役割を果たすこととなります。

 不具に近い体ながら、その頭脳でもって武田晴信の腹心として活躍してきた勘助。彼はその物事に拘らぬユニークなキャラクターで、無坂をはじめとする山の者とも親しく交流してきました。
 実際のところ、武田の忍びと幾多の死闘を繰り広げてきた無坂が、彼らと全面戦争にならずに済んでいるのは、勘助の存在あってのことなのですが――今回無坂は、その勘助の供として、今川による織田攻めに同行することとなります。

 その戦が、桶狭間で如何なる結果を迎えたのか――それをここで申し上げるまでもありませんが、その結果は、ある意味今川家以上に勘助に大きな衝撃を与えることになります。そう、彼は今川の大勝を全く疑わなかったのですから……
 軍配者にとって致命的ともいえるこの読み違えに自らの老いを感じ取った勘助は、やがて、かねてから予感めいたものを持っていた、自分の死に場所となる戦場を見つけだすことになります。

 その戦場とは川中島。己の最期の力を振り絞る勘助の戦いを見届けることとなった無坂は……


 こうして見てみると勘助に振り回された感のある今回の無坂ですが、本シリーズの勘助は、それだけ大きな存在であったと言うべきでしょう。様々な戦国武将と接点を持ってきた無坂ですが、その中でも勘助は彼にとっては一種の同志ともいうべき存在だったのですから。
 その勘助とともに無坂が川中島で繰り広げる死闘は、本作のクライマックス。人と人の命が渦となってぶつかり合うような戦場での戦いは、これまで描かれてきた忍びたちや野生の獣たちとの戦いとは全く異なる、異様な迫力を持ってこちらに迫ってくるのです。


 とはいえ、上巻に比べると、この下巻はいささかおとなしめの展開であることは否めません。特に作中で描かれるタイムスパンがかなり長いこともあって、いささか駆け足の印象すらあるのですが――しかし個々の場面場面はしみじみと味わい深いものがあるのは、無坂という人物の存在感あってのことでしょう。

 そしてその無坂も年を重ね、本作の結末においては、なんと還暦を迎えることとなります。
 思えば長い時を無坂とともに暮らしてきたものだ――という気分にもなってしまいますが、本作の結末で描かれるある光景は、その時の中で次代を担う若者たちが育ち(『嶽神』に繋がっていく描写にはニヤリ)、そして長きに渡る怨讐もやがては洗い流されていくことの象徴として、静かな感動を生みます。

 そしてこうした積み重ねの先に、無坂にとっての「その時」が、それも遠からぬうちに訪れることでしょう。
 果たしてそれがどのような形で描かれることとなるのか、それはわかりませんが、その中で、嶽神という存在の一つの形が浮かび上がることになるのではないか――今はそう感じているところです。


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