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2018.07.25

川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第7巻 覇王の「狂」、戦場を圧する


 劉邦を扶けて天下を取らせた軍師・張良の活躍を描く本作――ですが、前の巻同様、いやそれを遙かに上回る存在感を見せるのは、項羽その人。力みなぎるポーズで表紙を独占していることからもわかるように(?)この巻の主役はほとんど彼なのであります。

 叔父の項梁亡き後に楚軍を率いた宋義を斬り捨て、上将軍となった項羽。目指すは項梁が討たれた地であり、今は二十万以上の秦軍に包囲された鉅鹿城であります。しかしいかに彼が一騎当千の豪傑であるとしても、楚軍は七万足らず。彼の下の奇才・范増の頭脳を以てしても、この戦力差を覆すのは容易ではありません――というよりほとんど不可能であります。

 それを裏付けるように威力偵察に出た黥布が見たものは、攻城戦というよりもほとんど土木工事状態で鉅鹿城を囲んだ秦軍の備え。砦と砦の間を壁で繋ぎ、あたかも新たな城壁を作ったような状態ですが、もちろんこれは内を逃さず、外を阻む必殺の構えであります。
 壁を崩そうとすれば、周囲の砦から敵が湧き出て包囲してくる――項羽には及ばずとも豪勇を誇る黥布であっても、これを崩すのはほとんど不可能な状況と言えます。

 しかしここで河を渡った項羽が兵たちを前に取ったのは――向かう先はまさしく死地、それであれば死人に甑も釜も要らぬ! 船や天幕も不要! と全てぶっ壊して後退のスイッチを切って見せるアピール。
 背水の陣といえば韓信のそれが有名ですが、それに先立つ項羽のこれは、彼の中の「狂」を兵たちに存分に見せつけ、そして伝染させる儀式によって始まったと言えます(ちなみにその韓信はこの時この兵たちの中にいたのですが、ひたすらドン引き状態)。

 そして目つきや表情も項羽写しとなった兵たちを率いた項羽の陣は――ひたすら横に長い布陣で秦軍を包囲。
 いや、七万で二十万を包囲できるはずはないのですが――薄く薄く陣を組む、いやもうそれが陣と呼べるかは別として、とにかく横に延びた形で、兵たち全てが最前線に立つことになった楚軍は、項羽以下、バーサーク状態で大暴れを始めることに……!


 というわけで、1巻丸々、鉅鹿城周囲を舞台とした項羽の軍と章邯の軍の激突が描かれるこの巻。これまで同様、ここで描かれるものもまた、史実――「史記」に描かれたそれを踏まえたものではあります。
 しかし「史記」においてわずか数行、淡々と描かれたそれを、本作はまさに行間を埋める形で、絵に、そして物語として見せる――そしてその結果生まれたものが素晴らしいのです。

 たとえば上で述べた項羽の布陣。「史記」で述べられたそれを忠実に絵で見せたものではあるのですが、しかし漫画としての絵、そして構図でもって描かれるのは、その陣形であると同時に、それを支える項羽軍の「狂」の姿――「二十万以上の兵を擁する軍を五万の兵で包囲する……常軌を逸した光景がそこにあった」とナレーションで語られるその姿なのです。

 そしてその直接の発露である項羽の暴れっぷりたるや――凄まじい、というよりもう「
恐い」。人間の形をした化け物、あるい化け物を内に棲まわせた人間――伝奇的な意味でではなく、あくまでも比喩で――を描かせれば屈指の描き手である作者だけあって、ここで項羽が繰り広げる異常な暴れぶりは自家薬籠中のものと言えます。
 特に決着直前のある行動たるや……

 しかしここで唯一不満なのは、項羽に一人の助っ人が――それも彼同様の化け物が――登場してしまうことであります。いや、本来であれば漫画として大いに盛り上がるはずの(実際に盛り上がるのですが)場面でこう感じてしまうのは、こちらも本作の項羽の「狂」にやられてしまったということなのでしょう。
 少なくとも、助っ人に感謝するどころか「あの男、今度会ったら、必ず殺す!」と、本来であれば明らかに異常なことを言い放つ項羽の言葉が、それなりに頷けるものとして感じられてしまうほどには。


 こんな怪物を向こうに回しては、ある意味凡人中の凡人というべき劉邦も、神算鬼謀を誇る張良も(この巻の時点ではまだ負け惜しみを言っているようにしか見えない韓信も)色あせざるを得ないのですが――しかしそれを鮮やかに色付けしてみせるのが漫画家の業というものでしょう。

 そしてその業の冴えに疑いはないことは、この巻をはじめとして、これまでの物語が示していることは、言うまでもありません。次巻から始まるであろう張良の活躍に期待であります。


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