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2018.12.11

今村翔吾『童の神』(その二) 反逆と希望の物語の果てに


 平安時代を舞台に、まつろわぬ者たち「童」の熱い反逆を描いた快作の紹介、後編であります。本作が描く、より切実で重いもの。それは……

 それは桜暁丸たちの戦いの目的、彼らの求める自由の意味が、突き詰めれば自分たちもまた人間であること、すなわち自分たちの人間性を認めさせることにほかならないということであります。

 前回のに述べたように、桜暁丸をはじめとして、本作の主人公となるのは、「童」と呼ばれ、京人から激しい差別と抑圧を受けてきた者たちであります。
 鬼や土蜘蛛が、被征服民や異民族のメタファーであるとはしばしば言われることであり、その意味では本作の趣向は珍しいものではないのかもしれませんが――しかしその彼らの視点を中心に物語を描いてみせた作品は、実は決して多くはないと感じます。

 その一方で、本作はその視点をほとんど最初から最後まで貫くことによって、彼らの置かれた状況、彼らの抱く想い、そして彼らをそのような立場に置いてきた者たちの傲慢と社会の無情を、これまでにないほど力強く浮き彫りにするのです。メタファーなどと、したり顔で言うことを恥じさせるほどに。
 そこにあるのは、人が人を差別することへの怒りであり、そして人が人として生きることへの切なる願いであり――その点において、本作は様々な「反逆」を描いた物語の中でも、極めて切実で、根源的なものを描いていると感じるのです。

 そしてその怒りと願いは、実は決して彼ら「童」たちのみのものではないことが、本作にさらなる厚みを与えています。
 童を差別してきた京人――その中でも庶民と言うべき人々もまた、より富める者、より持てる者たちに、同様に扱われる存在にほかなりません。そしてまた、童を抑圧する武士たちの中にも、彼らと同じ血を持ち――それでも生きるため、信じるもののために、彼らに対峙する道を選んだ者もいるのであります。

 善と悪で割り切れる物語ではない、悪を倒してめでたしめでたしという物語ではない――そんな物語である本作は、時に、いや多くの場面で、読者である我々にひどく苦い味わいをもたらします。

 いや、物語が大江山の酒呑童子伝説を題材としていることがわかった時点で、ある意味結末は見えてしまうのですが――しかしそれでもなお本作が我々の目を最後まで惹きつけるのは、そこに描かれている物語がどこまでも希望に満ちたものであり、そしてその希望は自分たちの中にもあるものであることを、感じさせてくれるからではないでしょうか。


 ……などという理屈を捻るまでもなく、とにかく最後の最後まで、こちらの胸を熱くさせてくれる本作。
 特に終盤の疾走感たるや尋常なものではなく――酒呑童子伝説に伝わるある言葉が、異常に格好良い形で使われるのにはもう!――純粋にエンターテイメントとしても非常に魅力的な作品であることは間違いありません。

 もっとも、そんな本作にとっての私の最大の不満は、童たちの戦いが結末で一つの終わりを迎えること――それに尽きます。
 いや何を言っているのだ、と思われるかもしれませんが、童たちが抱いた反逆の想いは、決してこの時この場所の彼らだけのものではない――それは明らかでしょう。それは人間が人間であろうとする限り、人間が人間をあきらめない限り、必ず抱く想いなのですから。

 だとすれば、童たちの戦いがここで終わってしまうはずがない。いつかまた、童たちが、童たちと同じ想いを抱いた者たちが必ず現れる――そんな「希望」を胸に、新たな「反逆」の物語の登場を期待するところであります。


『童の神』(今村翔吾 角川春樹事務所)

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