« 平谷美樹『百夜・百鬼夜行帖』 第11章の1『紅い花弁』 第11章の2『桜色の勾玉』 第11章の3『駆ける童』 | トップページ | あさのあつこ『火花散る おいち不思議がたり』 母と子を巡る事件の先に »

2019.01.27

川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第11巻 歴史を動かす一人の男の「侠」


 張良の戦いもいよいよ佳境、悲願である秦打倒も目の前に迫りました。しかしそこに立ちはだかるのは意気軒昂な秦軍。これに対して張良は非情の覚悟を決めることになります。そして終わりを告げる一つの戦い。しかしそれは新たなる戦いの始まりに過ぎないのであります。

 打倒秦を巡る劉邦と項羽のデッドヒートは、張良の奇策に次ぐ奇策で関中に入った劉邦が一歩リード。しかしここから先はいわば敵の本拠であります。
 これに対して張良は、数に勝る秦軍の「心を折る」べく戦いを展開、その策は成ったかに思われたのですが、秦を壟断していた宦官・趙高が秦王・子嬰によって除かれたことにより、秦軍の士気は一挙に高まることになります。

 ここに至り張良は殲滅戦を決意するのですが――いかに彼に神算鬼謀があったとしても、彼我の戦力差は歴然。しかし張良は勝利のため、打倒秦のため、味方に多大な犠牲が出ることを覚悟の上の戦いを始めて……


 というわけでこの巻の前半で展開するのは、劉邦軍と秦軍の最後の総力戦。ここで繰り出される張良の策は、偽装や伏兵など、一つ一つはおなじみのものではあるものの、その二つを組み合わせ、あるいは連続して繰り出すなど、次々と変化球が繰り出されてくるのは、決戦らしく実に盛り上がります。

 しかしそれ以上にこの戦いを熱く盛り上げるのは、そこに臨んだ者たちの覚悟でしょう。いかに張良の策ありとはいえ、それを実行に移すのは、そしてそれを支えるのは、劉邦軍の面々。そこでは大将たる劉邦もまた、文字通り己の命を的として戦うのですから。
 それでもなお、張良にも読み切れなかった人の心が、戦いの結果を大きく左右するのですが――しかしそれをひっくり返すような事件が、ここで描かれることになります。そう、歴史に残る項羽最大の悪行が。

 いかに白髪三千丈の国といえども、あまりにもけた外れの規模で、そしてそれだけに非道さが際だつ項羽の「それ」。
 項羽の「兇王」としての名を決定付けた「それ」を、しかし本作は意外とあっさりと描いてみせます。

 個人的にはもっと恐ろしく描いてもよかったようにも思いますが――しかし真に恐るべきは、その命をあっさりと、むしろ平然とした表情で下す項羽の精神性なのでしょう。
 ここで描かれる章邯の言葉、「項羽とは何だ?」とは、まさしく我々読者の言葉でもあります。


 といってもこれは、ある意味項羽の盛大極まりないオウンゴール。これが決め手となって、子嬰はついに劉邦に降伏することになります。(ちなみにここで有名な咸陽に入った劉邦軍の三者三様の姿が描かれているのですが、完全にギャグとして描かれている劉邦以上に、真面目な蕭何の姿が妙におかしい)

 ある意味あっさりとした結末ですが、しかしいずれにせよ、ここに張良の悲願であった秦打倒は成ったことになります。が――ここから真の戦いが始まるのは、歴史が示す通り。
 いつも通りというべきか、張良以外の人間の下策に動かされて窮地に陥る劉邦。しかし今回は、項羽を敵に回すという――見開きで激怒する項羽の迫力!――一番やってはいけないことをやらかしてしまうのですから。

 世にも恐ろしい(そして実に彼らしい)宣告とともに劉邦討伐を決めた項羽。大志を果たして虚脱状態の張良もその動きを察知できぬ中、一人の男の「侠」が、思わぬ形で歴史を動かすことになります。
 その名は項伯――その名の通り項羽の伯父である彼は、かつて雌伏時代の張良と仲間たちに窮地を救われたことがある身。その恩義を返すには今しかない! と覚悟を決めた彼の姿は――ビジュアル的には普通の中年男性にもかかわらず――この巻で描かれたどの英雄豪傑の姿よりも格好良く映ります。


 史記という確たる「原作」に則って描かれる本作。しかし史実は「原作」に描かれているかもしれませんが、そこに生きる人の心は、その動きは、本作独自の、本作ならではのものであります。
 それはこれまでに幾度も感じ入ったところですが――しかし今回の項伯の決意は、その最たるものというべきでしょう。格好いいのも道理、ここで描かれたのは、普通の男が歴史を動かす英雄となったその瞬間なのですから。

 そして動かされた歴史が向かう先は――史上名高い「鴻門の会」。見せ場だらけのこの出来事を、本作がいかに描くのか――次巻も目が離せません。


『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第11巻(川原正敏 講談社月刊少年マガジンコミックス) Amazon
龍帥の翼 史記・留侯世家異伝(11) (講談社コミックス月刊マガジン)


関連記事
 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』 第1-3巻 史実と伝説の狭間を埋めるフィクション
 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第4巻 史実の将星たちと虚構の二人の化学反応
 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第5巻 激突、大力の士vs西楚の覇王!
 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第6巻 覇王覚醒!? 複雑なる項羽の貌
 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第7巻 覇王の「狂」、戦場を圧する
 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第8-9巻 劉邦を囲む人々、劉邦の戦の流儀
 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第10巻 最終決戦目前! 素顔の張良と仲間たちの絆

|

« 平谷美樹『百夜・百鬼夜行帖』 第11章の1『紅い花弁』 第11章の2『桜色の勾玉』 第11章の3『駆ける童』 | トップページ | あさのあつこ『火花散る おいち不思議がたり』 母と子を巡る事件の先に »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第11巻 歴史を動かす一人の男の「侠」:

« 平谷美樹『百夜・百鬼夜行帖』 第11章の1『紅い花弁』 第11章の2『桜色の勾玉』 第11章の3『駆ける童』 | トップページ | あさのあつこ『火花散る おいち不思議がたり』 母と子を巡る事件の先に »