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2019.01.21

肋家竹一『ねじけもの』第3巻 大妖が見た人間の生の意味と無意味さと


 戦国時代末期の九州を舞台に、復讐に生きる山賊・カガシと、彼に興味を持ってつきまとう大妖の女・縣の姿を描く本作もこれで最終巻。自分の仲間たちを皆殺しにした戦闘集団・蜥蜴を追い続けたカガシは、伊東義祐の下についていた蜥蜴と戦うため、島津家の下で決戦の時を待つのですが……

 自らが生きるために容赦なく他の者から奪い、殺しながら放浪を続けるカガシ。ある時、妖が住まうという山に立ち入った彼は、そこに長きにわたり逼塞していた強大な妖怪・縣と出会います。
 長い生のうちに激情を失っていた縣は、復讐のために生きるカガシに興味を持ち、山を出て勝手に彼の旅に同行することに。そして旅の末、蜥蜴が佐土原城の伊東義祐に仕えていることを知ったカガシは、伊東を攻める島津義弘と対面することになるのでした。

 というところから始まるこの最終巻ですが、互いの利害関係が一致して、カガシは島津の兵となり、戦場で生き生きと暴れ回る姿を見せます。そして高城川で島津家と伊東家の求めで派兵した大友家が激突する中、カガシは以前仕留めた蜥蜴の副頭領の息子、そして真の仇である頭領と対峙することになります。
 一人で彼らに挑むカガシと、戦いを見つめる縣。あまりに強大な頭領との戦いの行方は、そしてその先にカガシを、縣を待つものは……


 第2巻辺りからそうであったように、構図的には人間と妖の物語というよりも、人間同士(と彼らを見つめる妖)の物語となった感のある本作。その印象はこの巻の背景が高城川の戦い(耳川の戦い)であることで、より強まります。

 一時は九州の覇権に王手をかけた宗麟の大友家がこの戦いで島津家に大敗したことにより、以後の大友家の運命を事実上決定づけたとも言える高城川の戦い。
 九州の戦国史において重要な位置を占めるこの戦いですが――しかし本作においては、あくまでもカガシが、蜥蜴がその中でぶつかり合い、殺し合う舞台に過ぎません。そしてその一方で、カガシと蜥蜴はまた、歴史に名を残すことのない無数の兵に過ぎないのであります。

 そしてそのある種の空漠さは、戦いの果てに明らかになる蜥蜴の頭領の意外な「正体」によって、さらに強まると言えます。復讐という激情のままに、己の身を砕きながらも目の前の敵を殺していくカガシ。しかしその最大の目標である頭領は……
 いやはやこう来たか! と言いたくなるような、ある意味危険球であります。しかしその強烈さは、そのままカガシの苛烈な生き方のアンチテーゼというべきでしょう。


 そして結末――この物語の中で語られた因果因縁というものとはほとんど無関係に、登場人物たちの生が続き、あるいは終わる様を見れば、索漠たる想いはより一層強まります。
 それでは彼らの生が無意味なのか? 一時の激情に駆られた愚かなものなのか? そして縣が自分にとっての人間の存在として喩えたように、蟻のようにとるに足らないものなのか?

 確かに人間の生とは、この世の時の流れとは無縁に生きる縣の視点からすれば、そのように感じられるかもしれません。しかしもし、それが無意味なものであったとするならば――たとえそれが小石を指先で転がす程度のものであったとしても――なぜ縣を動かしたのか。
 本作はその答えを明確に出すことはありませんが、そこに一つの小さな小さな意味を見いだすのは、人間の生というものに希望を見過ぎているでしょうか?

 どこまでも一貫してドライで殺伐とした物語の中で、人間の生の意味を――あるいは無意味さを――描く本作。
 その物語を読み終えた時、我々は結末に描かれた縣の姿に、なにがしかの感慨を覚えるのではないでしょうか。


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