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2019.05.07

篠原烏童『生類憐マント欲ス』 希代の「悪法」の陰の人と動物の可能性


 悪法として名高い徳川綱吉の生類憐みの令。近年はその評価の見直しも進んでおりますが、本作『生類憐マント欲ス』は、まさにその法にまつわる物語――巨大な黒犬に変化する謎の浪人と旗本の次男坊が、江戸を騒がす怪事件の数々に挑む連作であります。

 生類憐みの令に対する江戸の人々の不満が高まっていた元禄――暇を持て余して部屋住み仲間たちと町をぶらついていた旗本の次男坊・遠山進之介は、近頃悪評で名高い材木問屋に入っていく奇怪な狐と、それを追う巨大な黒犬を目撃することになります。
 おふうという少女に「せんせい」と呼ばれて引き取られていく黒犬を追うも、見失ってしまった進之介。それでも自分が見たものが頭から去らない彼は、材木問屋周辺を調べ始めるのですが――そこであの黒犬とよく似た気配を持つ長身痩躯の浪人と出会うのでした。

 やがてその浪人とともに驚くべき事件の真相を目の当たりにする進之介。そして邪悪な魂に対して「我――生類憐れまんと欲す されどその心 生きものの法を越えた時 もはや鬼籍に入りたり」の言葉とともに破邪顕正の太刀を振るう浪人もまた、「せんせい」と呼ばれていることを彼は知ることになります。

 実は人間と黒犬の間を行き来する謎の男・せんせいは、将軍綱吉と柳沢吉保に仕える隠密。そして進之介もまた、せんせいと行動を共にするうちに綱吉と吉保の真の姿を知り、隠密として活動することに……


 その苛烈な取り締まりによって、人間を犬などの動物の下風に置いた稀代の悪法と言われてきた生類憐れみの令。勢い、その令を発し広めた綱吉と吉保も、時代ものでは悪役とされることが非常に多いといえます。
 もっとも、生類憐れみの令(そもそもこれも単一のものではないのですが)自体は、捨て子を禁ずるなど人間を含めた生類全体の保護に関する精神規定だったようですが――上の人間の意図を下が勝手に慮って悲惨なことになるのはいつの時代も同じということでしょうか。

 それはさておき、本作はまさにその生類憐れみの令に関する一種のギャップを題材とした物語。本作においてせんせいと進之介たちが対決する主な相手は、その悪評を利用して――いやむしろその悪評を作りだして――綱吉の政権に打撃を与えようとする者たちなのであります。
 読売などを操り、ありもしない苛烈な取り締まりや、憐れみの令によって増長した動物たちが起こしたという事件を声高に訴える敵の陰謀を阻むため、せんせいたちは奔走することになるのです。


 しかし本作のユニークな点は、こうした「普通の」時代ものとはある種逆転した構図――本作の綱吉は善良で純粋な君主、吉保は能吏として描かれる――のみにあるわけではありません。本作の最大の特徴――それは「せんせい」たち、人と獣の間に在る者たちの存在にほかなりません。

 人の歴史の陰に密かに生きてきた「彼ら」。せんせいのように犬の姿を取る者だけでなく、虎や狐など、様々な動物から人に変じる――もしくは人から動物に変じる者たちの存在が、本作においては生類憐れみの令と重ね合せて描かれることになります(というより、彼らの存在がこの憐れみの令を……)。
 人とその他の動物を分かつ(ものとして描かれる)生類憐れみの令。生類憐れみの令が人よりも動物を重んじるものだとすれば、あるいは人が動物の上に立つべきであるとすれば――彼らはそのどちらの立場にあるべき者なのでしょうか。

 本作は、せんせいと進之介の活躍を通じてそう問いかけることにより、必然的に生類憐れみの令の中のある種の矛盾を描きます。そしてそれ以上に、人と動物を分けることなく、ともにこの世に暮らす「生類」として共存することの可能性もまた……


 当初は全2巻の予定であったものが全4巻に延長されたこともあってか、大きな物語は2巻のラスト(正確には3巻の冒頭)でひとまず終わった感もあり、またラストの展開も少々駆け足の印象もあります。
 しかし、それを踏まえたとしても、本作で描かれた「せんせい」たちの生き様、そして「せんせい」と進之介の友情が浮かび上がらせるこの可能性の姿は、魅力的で、そして希望に満ちたものとして感じられるのであります。

 もちろんそれは、綱吉が没した途端に廃止された生類憐れみの令のように、仮初めの、はかないものかもしれません。それでも確かにその可能性は存在するのだと信じたくなる――本作は、そんな爽やかな後味を残す物語であります。


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