松尾清貴『南総里見八犬伝 2 犬士と非犬士』(その二) 理不尽を乗り越える人間性の不滅
松尾清貴による『南総里見八犬伝』第2巻の紹介の続きであります。「八犬伝」という物語に存在する理不尽、その一つを背負った山林房八、そして彼に続く人々「非犬士」を本作は如何に描くのか……
当事者同士は知る由もなかった父祖の罪を精算する、そのためだけに、自分とたまたま瓜二つであった信乃の身代わりとなる――しかもその過程で自分の妻を巻き込んで、それがまた信乃の役に立ってしまう(現代から見れば噴飯ものの理由で!)房八。
そんな彼の存在と行動、辿った運命は、まさしく理不尽――特にその行動理由は、現代人から見れば、何とも理解しがたいものがあります。
非常に失礼なことを申し上げれば、ある種滑稽ですらあるその姿は、苦難に満ちた者とはいえ、勇士として存在する犬士たちとは対局に位置するようにすら感じられます。
本書の副題「犬士と非犬士」は、一面、そんなこの両者の間の深い断絶を表していると言えるでしょう。しかし、それに留まることなく、その先を描き、両者を繋ぐものをみせるのが、本作の見事な点なのであります。
小文吾を挑発し、敢えて小文吾に討たれることで彼らの役に立とうとする房八ですが、しかしそんな彼の中にも、一片の後悔が残らないはずがありません。「自分が犬士であったなら」――と。
そしてその想いは、彼らの前で伏姫と犬士たちの因縁を語る丶大法師に対して爆発することになります。本作においては、ほとんどメタフィクショナルな言葉で以て……
それに対する丶大法師の答えについて、さすがにここで引いて述べることはいたしません。しかしここで語られる言葉は、一人房八に対するものだけでなく、この「八犬伝」において、理不尽に泣く全ての非犬士たちに向けられたものである――と僕には感じられた、とは申し上げたいのです。
確かにこの世に理不尽は――まさしく理不尽なほどに不公平な形で――無数に存在する。しかしそれでもなお、その理不尽の中にも、意味と救いは存在することを、本作は語ります。
それはもちろん、主人公である八犬士たちの存在を前提とした物語としての格好によるものではあります。因果応報を基調として、物事にきっちりと白黒をつける「八犬伝」という物語だからこそ成立するものでもあるでしょう。
それでもなお、本作の房八の姿からは、理不尽の果てに斃れながらも、それでもなお、八犬士たちの中で生き続けるものの存在を――いうなれば人間の、人間性の不滅というものを感じさせてくれるのであります。
そしてそんな非犬士たちの存在があるからこそ、彼らに支えられて立つ犬士たちが、現代の我々から見ればあまりピンとこない「忠義」を一つの動機としているにも関わらず、我々の心を大いに動かしてくれるのではないか――とまで言えばさすがに大袈裟にすぎるかもしれませんが、そんな気持ちにもなるのであります。
そしてそんな非犬士たちの姿は、本書の後半で描かれる姨雪世四郎と音音、力二・尺八兄弟とその妻である曳手・単節にも見ることができます。
田舎町を舞台として世話物めいた惨劇の一夜を描く前半、山中の陋屋で繰り広げられる怪談を描いた後半――どこか芝居めいた舞台と趣向(実際、明らかに歌舞伎の台本的に描かれる部分がどちらにもあるのですが)を用いることにより、理不尽な悲劇と、その中に浮かび上がる人間性を巧みに描き出してみせた本書。
これからいよいよ複雑化し、より広い世界を舞台に始まっていく犬士たちの物語を描く前に、彼ら非犬士の物語がこの中で描かれることには、大きな意味がある――そう感じさせられた次第です。
そして、古奈屋の段に並ぶ理不尽すぎる物語、庚申山の段が本作において如何に描かれるのか、今までは大いに気になっていたのですが――本書を読んだ後であれば、おそらく次巻で描かれるであろうそれを、安んじて待つことができるように思うのです。
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