グリヒル&ジーン・ルエン・ヤン『スーパーマン スマッシュ・ザ・クラン』(その二)
スーパーマンと人種差別との戦いを描く『スーパーマン スマッシュ・ザ・クラン』の紹介の後編であります。ロベルタという一人の中国系アメリカ人少女を通じて、人種差別というものの存在を浮き彫りにし、同時に少女の成長物語を描いて見せる本作。しかしさらに見事なのは……
本作のさらに見事なのは、「異邦人」に対する「人種差別」との戦いという物語に重ね合わせる形で、スーパーマン自身の物語も描き出す点にあります。
そう、クリプトン系アメリカ人ともいうべき、(ロベルタ同様)二つの名前を持つスーパーマンことクラーク・ケントもまた、この地球では「異邦人」なのですから。
あるヴィランとの戦いで謎の緑色の結晶(言うまでもなくアレ)に触れて以来、奇妙な幻覚を見るようになったクラーク。鏡の中の自分の姿が、緑色の肌と二本の触覚を持つ(古式ゆかしい)宇宙人に見えたり、あるいは同様の姿を持つ男女の幻影が、昼日中も呼びかけてきたり……
やがて自分の両親と名乗るようになったその男女の存在は、クラークに少年時代の記憶を蘇らせることになるのです。他人と異なる力を持ち、それを知られることを怖れていた日々を。
スーパーヒーロー数多ある中でも、完全無欠の存在であり、正義と希望の象徴であるスーパーマン。もちろんそれはごくアバウトなイメージであり、実際には決してそのように単純なものではないことは言うまでもありません。
彼もまた、後に続くヒーローたちと同様、ヒーローとしての自分と、(シークレット)アイデンティティの間のギャップに悩まされてきたのですから。
そして本作はそんなスーパーマンのある側面――地球生まれではなく、赤子の頃に地球にやって来た異邦人であるという基本中の基本の設定を、先に述べたロベルタの境遇に巧みに重ね合わせます。
そこに生まれるのは、スーパーマン自身の成長の物語――クラーク・ケントが、スーパーマンというアイデンティティを確立するまでの物語なのです。
本作を手にした時、冒頭で描かれるある台詞と描写に、違和感を感じた方は少なくないと思います。
ロイス曰く「なら彼の限界も知っているわね。跳び越えたのはビルの20階まで。飛べはしないの」。そしてその言葉通り、スーパーマンは空飛ぶヴィランと空中戦を演じることなく、何よりも事件解決後は、高速で走って去って行くのです。
さらにいえば、ヒートビジョンもスーパーブレスもない――本作に登場した時のスーパーマンは、言ってみれば、非常に頑健な肉体を持った、ただの怪力男なのであります。
この辺りは、件のラジオドラマ時期の設定に基づいているとのことですが、それを一種メタフィクション的に踏まえつつも、それにこのアイデンティティ確立のドラマを絡め、我々が良く知るあのスーパーマン誕生に結びつけているのには、ただただ拍手喝采するしかありません。(本作における「○○の○○」のアレンジの見事さにも感心いたします)
「差別」との戦いという、普遍的なテーマを描きつつ、中国系アメリカ人少女の成長、そしてスーパーマン誕生(のリトールド)を描くことによって、極めて爽やかで後味のよいヒーローコミックにして、同時に優れた児童文学として成立している本作。
物語展開の巧みさは言うまでもなく、それを描くグリヒルのアートも、この物語にこれ以外はないというハマりようというほかありません。(特に、本作において様々な「顔」を見せるクラーク・ケント/スーパーマンの描写の見事さ!)
残念ながら、物語の時点から70年以上を経た今になっても「差別」はなくなりません(それどころか、つい最近になってもスーパーマンの「祖国」において信じられない事件が起きるほどであります)。
それでも――それでも、誰にでも同じ明日がある。それを信じさせてくれる本作は、今の我々がまさに読むべき物語であり、それがこれほどタイムリーに邦訳されたのには感謝しかありません。
もう一つ――本作で僕の心に強く残ったのは、ラストで描かれるロイスのある行動です。本作において、一貫して地球人の――人間の善性の象徴として描かれる彼女ならではの心の籠もった行動は、なるほどクラークがぞっこんになるのも納得なのです。
『スーパーマン スマッシュ・ザ・クラン』(グリヒル&ジーン・ルエン・ヤン 小学館集英社プロダクション) Amazon
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