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2021.05.20

川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第19巻 人でなしの策 帰ってきた男二人

 まだまだ続くケイ陽での攻防戦。宿敵というべき范増をついに除くことに成功したものの、それでもなお強大過ぎる項羽に勝つすべはあるのか? 劉邦の、すなわち張良の綱渡りが続きます。

 劉邦がケイ陽城に籠城する間に、韓信が河北を平定し、楚を囲むという、乾坤一擲の策に出た張良。大将自らが囮となって項羽を引きつけるという意表をついたこの策を成功させるため、張良はあらゆる手を尽くすことになります。

 韓信が背水の陣で歴史的な大勝利を収めた一方、陳平との連携により、項羽とその軍師たる范増との離間に成功した張良。ここである意味最大の強敵を除いたといえますが、項羽の勢いはまだまだ衰え知らずであります。
 既に成皋の敖倉(食料集積地)との連携は断たれ、籠城も困難な状況となったケイ陽。ここで張良はついに残酷な策を献ずることになります。ケイ陽から劉邦を脱出させる――そのために人的犠牲を問わない人でなしの策を。

 というわけで、この巻の前半で描かれるのは、いわゆる金蝉脱殻の計――蝉が抜け殻を残して飛び去るように、敵に気づかれずに主力を撤退させるという策ですが、しかし実際の策はなかなかに酷いものであります。
 まずケイ陽の東門を開いて二千近くの兵が出撃――と思えば、これが全て侍女等の女性。迎撃に出た楚兵が、それを知って(別の意味で)襲いかかろうとしたところに、劉邦の車が現れ、降伏を申し出る――というので兵がバンザイして喜んだと思えば、これが替え玉なのであります。

 この騒ぎで東門に注意を引きつけた間に、劉邦は西門から脱出に成功するのですが――しかし替え玉が無事で済むはずもありません(たぶん娘子軍も……)。はたしてこの替え玉は壮絶な最期を遂げることに……


 これまで、良くも悪くも、劉邦の(そして張良の)極端な言動を、可能な限りマイルドに描いてきた感のある本作。そんな本作においても、さすがにこのくだりは、史実(史記)ほぼそのままに描かれることになります。しかしここで本作は、一つの新たなドラマを描くことになります。
 ここで替え玉として残り、処刑されたのは紀信。史記ではほとんどここで初登場したに近い(正確には鴻門の会の時に劉邦を護衛しているのですが、「漢書」では名前が違っていたりまあ記憶に薄い)、死ぬために出てきたような人物ですが――実は本作においては、紀信は以前にも登場しているのです。

 それは秦の滅亡直前――劉邦の軍が、秦の軍と漢中での最後の戦いを繰り広げた時のこと。張良の策により秦軍を一網打尽にできるところが、秦軍の勢いに押されて攻撃できず、相手を逃してしまった部隊の指揮を執っていたのがこの紀信だったのです。
 ここで責任を負わされて処刑されようとしたのを留めたのが張良と黄石。そして黄石は「大丈夫」と紀信に太鼓判を押したのです。

 そして今、その紀信は項羽を前にしても一歩も引かず、胸を張って、まさに大丈夫として死を遂げる――ドラマチック過ぎるといえばそうかもしれません。しかしあまりに無情な策の陰に人の想いを見出したくなるのも人情であります。
 実は上に述べた紀信の出番は単行本第11巻。私も正直なところ言われるまで忘れていましたが――作者の仕掛けた「策(ドラマ)」はここに実ったというべきでしょう。
(ちなみに、ケイ陽に残されて寝返ろうとした魏豹を殺した周苛と樅公が、紀信の友人であったけれども、それまで彼を軽く見ていたのを後悔するという設定も実に上手い)

 ちなみにこの巻にはもう一人、実に久々に登場した人物である彭越が活躍します。こちらは今後も活躍するであろうかなりの重要人物ですが、以前の出番が第8巻。
 その時、いかにも意味有りげに登場したので、とっくに活躍していたものと思い込んでいたのですが――実をいうと、似たような髭の周勃と完全に混同していました――ここで満を持しての登場であります。

 ケイ陽を脱出した劉邦たちが南方の宛に籠城し、またもや項羽に苦しめられている隙に楚に侵攻して項羽の従弟を討ち、激怒した項羽が迫れば戦わずに軍を散らせて逃げる――元盗賊とも言われる経歴に相応しい戦いっぷりが、実にいい味を出しています。


 さて、そんな男たちの活躍に助けられて、ケイ陽から宛、そして成皋と転戦する劉邦軍。いま三度項羽の軍が迫らんとする中、張良は――かつて上述の紀信の処刑を防いだ際に「敵も人なら味方も人 軍師の鬼謀のまま道具の様に死んではくれません」と語った彼は、今また新たな味方の死を代償に、次なる策を繰り出さんとしています。
 はたしてその内容は――次巻に続きます。


『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第19巻(川原正敏 講談社月刊少年マガジンコミックス) Amazon


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