古泉迦十『火蛾』 真理を求める者たちを待つ殺人
12世紀の中東を舞台に、真理を求める修行者たちが籠もる山で起きた殺人を巡る奇妙かつ幻想的な物語――2000年の第17回メフィスト賞を受賞し、今なお評価の高い宗教ミステリの快作(怪作?)であります。姿を顕さぬ導師の正体とは、タイトルの火蛾が象徴するものとは……
12世紀の中東――イスラムの聖者たちの伝記編纂を志す男・ファリードは、取材のため、アリーと名乗る男を訪ねます。そこでアリーが語り始めたのは、同名の男を主人公とする、現実と幻想が入り交じった奇妙な物語でした。
ゾロアスター教徒の祖父と、改宗してシーア宗のイスラーム教徒となった父を持ちながらも、家を出て、スーフィズムの修行者になることを選んだアリー。修行を始めて五年経ち、師から改めて聖地メッカに巡礼するように命じられたアリーですが――しかし巡礼の途中、彼を奇妙な男が呼び止めます。
《導師》と呼ぶ髑髏を片手に、アリーに対して問答を仕掛ける男。その中で圧倒されていくアリーに対し、男は《山》を登り、自分の弟子のハラカーニーという男に会えと告げるのでした。
そして《山》に穹廬(テント)を張り、修行を始めたアリー。彼は穹廬を訪れたシャムウーンと名乗る男から、ここには自分たちとカーシム、ホセインの四人の門弟がそれぞれの穹廬で修行を行っていると聞かされることになります。その晩、・燭の灯で行を続けるアリーの前に、天幕の向こう側の影のみの姿で現れたハラカーニー。神を巡る問答の末、聖者はアリーに対し、カーシムの穹廬を訪ねよと告げて消えるのでした。
翌朝、カーシムの穹廬を訪れたアリーとシャムウーンが見たものは、内側から紐で閉じられた穹廬の中で殺された行者の死体――アリーは現場である穹廬の有様と、シャムウーンの態度に奇妙な違和感を感じながらも、修行を続けることになります。そしてその晩も天幕の向こう側に現れたハラカーニーと問答を行ったアリーが翌朝見たものは……
正直に申し上げて、私を含めて日本の多くの人々にとって、その教義と歴史に対する十分な知識があるとは言い難いイスラームの世界。本作はその題材を、それも12世紀を舞台として描いたミステリであります。
しかしそのような難しい題材だけに、内容の方も難解なのでは――という印象を抱く方も多いと思いますが、それは良い意味で裏切られることになるかと思います。
確かに、アリーとハラカーニーの問答の内容は難解ではあるものの、物語の骨格を支えるイスラームの基礎知識の部分については驚くほどにわかり易く、物語世界に入り込む妨げにはならないのですから。
と、いきなり外側(?)から入ってしまいましたが、ミステリとして見て、本作が端正かつユニークな作品であることは間違いありません。(個人的には、あの宗派以外に、もう少し12世紀という時代と密接に関わると嬉しかったのですが――といってもそれは私の知識不足による感想かもしれません)
本作で描かれる表向きの謎は、一種のクローズド・サークルもの――世俗との関わりを一切断った《山》で、さらにそこで一人ひとりが閉じこもって修行する穹盧で起きた殺人という、いわば二重の閉鎖環境で起きる殺人の謎が描かれることとなります。
ここからはちょっと物語の核心に触れかねず、表現が難しいのですが、殺人のトリック自体は比較的シンプルながら、ユニークなのはむしろ殺人それ自体よりもその後の――であり、そこに一種の宗教的合理性いや必然性が絡む(そしてそれが犯人究明に繋がっていく)点は、本作ならではの魅力といえます。
しかしそれ以上に本作を強烈に印象付けるのは、その先でしょう。ハウダニットは解明できた。しかしホワイダニットの方は? と首を傾げていたところに叩き込まれる真相は、まさに驚天動地――おそらくあのアイテムはあれなのだろうな、とは思ったものの、まさかそこからここまでやるとは、という終盤の一種の崩壊感覚は、快感ですらあります。
そして振り返ってみれば、この物語そのものが――そこで語られる史実や、難解に感じられた問答すら――冒頭から全てこの結末のために慎重に構成されていたことに、感動させられるのです。
タイトルの「火蛾」は、灯に寄ってくる蛾のこと――転じて、作中では暗黒の中で光を求めて灯に近づき、ついにその身を滅ぼす者として語られます。それが真に象徴するものは何か、そして何故本作のタイトルに冠されているのか――それが明らかにされる結末には、ただ痺れるばかりであります。
メフィスト賞も色々な意味で納得の、ワンアンドオンリーの輝きを放つ作品です。
『火蛾』(古泉迦十 講談社ノベルス) Amazon
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