川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第24巻 項羽転落 覇王の中の人間の顔
長きにわたり繰り広げられてきた楚漢の戦いにも、いよいよ結末が近づいています。廣武の漢城と楚城で繰り広げられた戦いも終わり、双方撤退を始めたにもかかわらず、張良が献策した追撃の成否は。そして韓信の動きは――いよいよ物語の舞台は、決戦の地・垓下に移ることになります。
長きにわたり向かい合った二つの城――漢城と楚城に依って繰り広げられた劉邦と項羽の戦い。項羽を引きつけてひたすら守りに徹し、その間に韓信と彭越が後方を攻める――その策を実行する間、劉邦は胸に矢を受け、一方項羽の側は糧食不足に悩まされ、双方消耗を強めていくことになります。
その結果、和議を結んで撤退することとなった両軍。しかしそんな中、鬼の顔を見せた張良は、追撃を強硬に主張し……
そんな驚愕の展開で終わった前巻。この策が容れられなければ今後献策はしない――ほとんど脅迫に近いことを張良が言い出したのは、この機を逃せばもう二度と項羽を討つことはできない、という想いの現れだとは思いますが、しかし信義を破っての騙し討ちをやれと言われて、喜んで従う者もいないでしょう。
悩んだ末に陳平(この人も張良の策の解説役というか、フォロー役が板についてきた感が……)の取りなしを受けて、楚軍を追うとともに、韓信と彭越を呼んで挟み撃ちする形を取ることとした劉邦。しかし韓信も彭越も動こうとはせず、拳を振り上げた劉邦の方が危険な状況になる始末であります。
彭越はともかく、本作の韓信は野心とは縁遠い好漢のはず。その韓信が何故――というのが、この巻では一つの焦点となっていると言ってよいかもしれません。この辺りは、以前より韓信の周囲で不審な動きを見せていたあの人物が――というのが一つの解釈、というか史実に忠実ではありますが、その言を受けた時の韓信の表情は、ある意味本作独自の、己に自負を持ちつつも、あくまでも生真面目な韓信像を象徴するものと言えるかもしれません。
もちろんそんな韓信像は、彼を信じる張良の存在あってこそであります。何故初め韓信が動かず、そしてその後彼が動き出したのか。そしてその韓信に想いが通じれば勝てると、張良が喜色を見せたのは何故か――その心の動きは、劉邦に勝利をもたらしたものが、単純な智謀や武勇ではないことを描いているといってよいでしょう。
(そしてもう一人、劉邦の三傑である蕭何が、ここでは顔を見せないのも、またらしい)
とはいえ、再会の時に完全に目と目で通じ合って完結している張良と韓信も困ったもので、この辺り劉邦も扱いに困るだろうなあ――とは思います。
何はともあれ、ついに集結することとなった劉邦・韓信・彭越の軍。ここから一気に状況は漢に傾くことになっていくのですが――それは決して漢側の軍勢の数が勝ったからでも、漢が抑えた土地の数が上回ったからでもありません。それは……
正直なところ、前巻のラストまで接戦を繰り広げていた、いや勢いでは上回っていた項羽が、ここから一気に、まさに崩れていくという表現が相応しい転落の一途を辿るのは意外にも感じられるかもしれません。しかしここで張良が語る項羽の敗因を見ればそれは理解できるものではあります。
(ただし、項羽の狂にして兇とは別の側面が、作中で十分に描かれていたかといえば、それは疑問符がつくのですが……)
そして何よりも歴史に名高い四面楚歌の場で、項羽が初めて見せたその表情には、覇王と恐れられた彼もまた、一人の人間であったことを示すものでしょう。何よりも、その彼の人間性を支えていた虞美人を想い、彼女と相和して歌う姿には、これまでの彼とは全く異なる想いが表れていることは間違いありません。
しかし、彼はこのままでは終わりません。終焉のその時まで、彼は再び狂にして兇の覇王足るのか――そしてその先に、張良は、劉邦は、韓信はいかなる顔を見せるのか。
いよいよ次巻完結であります。
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