ジェイムズ・ラヴグローヴ『シャーロック・ホームズとシャドウェルの影』 名探偵、ロンドンに邪神の影を追う
様々な物語世界とクロスオーバーし、今なお広がっていくクトゥルー神話。その邪神の影に、あの名探偵が挑みます。シャーロック・ホームズとワトスンの出会いの陰にはクトゥルー神話の邪神が存在し、その後の彼らの人生まで変えてしまった――そんな大胆極まりない構図で描かれる野心作であります。
アフガニスタンでのある事件がもとで、心身に深い傷を負ってロンドンに帰ってきたワトスン。彼は憂さ晴らしに出かけた怪しげな酒場で元同僚のスタンフォードが起こした騒動に巻き込まれたところを、只者ではない動きの老人、いや老人に扮した人物――シャーロック・ホームズに助けられるのでした。
ホームズとワトスンは、逃げたスタンフォードを追いかけたものの、既にその場から姿を消した後。実はスタンフォードは、ホームズによればシャドウェル地区で過去数ヶ月の新月の晩に発見された、異様に痩せ細った死体に関わっている疑いが濃厚だというのです。
スタンフォードの背後に、英国で成功した中国人であり、そして裏の顔では阿片窟を営むグンフェン・シュウがいると睨み、阿片窟で騒動を起こして挑発するホームズ。はたしてベーカー街に現れたグンフェン・シュウは、しかし彼がスタンフォードを使って新型麻薬の人体実験を行っているというホームズの推理を一笑に付すのでした。
真実を知りたければ一人でついてこいというグンフェン・シュウの言葉に乗り、何処かへ誘われたホームズ。そこで奇怪な麻薬と魔術でトリップした彼が見たのは、人知の及ばぬ太古にこの地球を支配し、そして宇宙の遙か彼方で今なお蠢く邪神たちの影だったのです。
そしてやつれ果ててベーカー街に帰ってきたホームズを前に、ワトスンも語り始めます。かつてアフガニスタンで彼が経験した、悍ましい出来事を……
ワトスンの未発表原稿が見つかった――という、ホームズ・パスティーシュの語り起こしとしては定番中の定番を用いながらも、その出所にH・P・ラヴクラフトが関わっているという、冒頭から実にそそられる仕掛けの本作。
しかも本作は単純に語られざる事件というのではなく、実は我々が良く知るホームズ譚自体が一種のフェイクであり――それは彼らが真に戦っていた敵の存在を社会から隠すためであった、という大胆極まりない基本設定の物語なのであります。
その敵の正体が、クトゥルー神話の邪神とその信奉者たちであるのは言うまでもありません。クトゥルー神話とホームズ、その双方を愛する者であれば一度は夢見た、そしてこれまで様々な作品で描かれた――しかしその数は両者の知名度からすれば意外なほどに少なく感じられる――取り合わせを本作は真っ正面から描いて見せます。
ホームズとワトスン、それぞれの形で禁断の知識と存在に触れていた二人が運命的に出会い、コンビを組んで挑む事件は、その内容や舞台設定、キャラクター描写など諸々の点で違和感なし。展開はどんどん派手になっていきながらも、「らしさ」を失わない物語を、存分に堪能させていただきました。
ただ――これはもちろん個人的な好みではあるかもしれませんが――もう少しホームズには、推理で邪神たちに挑んで欲しかった、というのも正直なところではあります。特に終盤は、真の黒幕の手の上で踊らされていた感もあり、たとえ相手が非論理の極みのような怪物であっても、人間の論理で謎を解き、挑んで欲しかったと、心から思います。
そのため、ホームズの長編パスティーシュにはしばしばある(ような気がする)クライマックスで推理よりもアクション主体の物語となってしまった――いう印象も否めず、その辺りは特にホームズファンにとってはもの足りない面もあるかもしれません。
(もう一つ、個人的には神話知識を陽に書きすぎという印象もあるのですが、これこそ好みの問題でしょう)
とはいえ、やはり邪神ハンター・ホームズという題材は、極めて魅力的であることはいうまでもありません。
そして冒頭から予告されているように、本作が三部作――三十年間の間にホームズとワトスンが繰り広げた邪神との戦いを描くものである以上、残る二作にも強く心惹かれていることは、間違いないところであります。
(あの人物も、当然あの程度で退場はしないでしょうから……)
『シャーロック・ホームズとシャドウェルの影』(ジェイムズ・ラヴグローヴ ハヤカワ文庫FT) Amazon
| 固定リンク
