伊藤真美『秘身譚』第1巻 月下を駆ける「美少年」 幻の古代ローマ伝奇
今年(2024年)公開される映画『グラディエーターⅡ』は、カラカラ帝(とゲタ帝)の時代が舞台とのことですが、そのカラカラの死から始まる伝奇漫画が本作です。ローマ帝国有数の都市・アンティオキアを舞台に、街を牛耳る士官と、彼に庇護される両性具有の美少年を中心とした物語が展開します。
カラカラが暗殺され、マクリアヌスが帝位に就いた217年――ローマ帝国東方の都市・アンティオキアは、街の有力者たちから成る組織「夜の辻」に牛耳られていました。
その状態を打破しようとした新任の総督は、組織の中心人物と目されるローマ軍団士官グナエウス・ドミティウス・ポリオを捕えたものの、その直後に、ポリオに仕える両性具有の美少年・エラに暗殺されるのでした。
その後、「夜の辻」の貿易商・ビディビウスからの、エラを彫像のモデルにしたいという依頼に応えつつ、エラをスパイとして送り込むポリオ。時同じくして、カラカラの母ユリア・ドムナの一族は、帝位への返り咲きを狙い、ポリオに協力を求めてくるのでした。
しかしエラは任務に失敗して瀕死の深傷を負い、激怒したビディビウスは、マクリアヌスにポリオのことを讒言することに……
最初に申し上げておきますと、本作は2010年に「マガジンイーノ」誌に連載され、同年に単行本第1巻が刊行して以来、続巻が刊行されていそない、いわば未完の作品です。
それを今になってここで取り上げるのは、冒頭に述べたとおり、『グラディエーターⅡ』と本作の舞台年代がほぼ重なる、というよりデンゼル・ワシントンがマクリアヌスを演じるというので本作を思い出したためですが――しかし今読み返してみても、様々な魅力に溢れた作品であるから、というのが最大の理由でもあります。
ローマとパルティアの戦いの最前線にありつつも、繁栄を謳歌するアンティオキアの猥雑な空気感と、都市を裏側から支配する(総督の首を差し替えることも容易くやってのける)「夜の辻」の妖しい存在感。
その「夜の辻」が奉じるのが、その名にふさわしくヘカテー(ヘカテーは月の女神、辻の女神であり、冥府や魔術と密接な関係を持つ存在であります)というのも素晴らしいのですが――それに対してユリア一派が奉じるのが太陽神エラガバルという照合もまた、大いに気になるところです。
そして何よりも物語の(おそらくは)主人公でありながら、全てが謎めいたエラの存在――単純な(?)両性具有ではなく、むしろ少年と少女の間をほとんど変身する彼/彼女は、作中で幾多の顔を持つ存在として描かれます。
(作中で明示されていませんでしたが、物語冒頭、非合法の剣闘試合でパルティア人捕虜を次々と屠っていく仮面の女狂戦士・ヘカテーもエラなのでしょう)
あたかも月がその相を変えていくが如く、とらえどころがないエラ――そのエラが、この第Ⅰ巻のラストで瀕死の重傷を負ったのに呼応するように、天の月がその相を変えるという有り得べからざる現象は、強烈な印象を残します。
そしてそれを描く作者の筆もまた見事であります。本作の数年前に描かれた(これも未完の)大作中世伝奇『ピルグリム・イェーガー』よりも、画的にも描写(特にアクション描写)的にもさらに洗練された画は、この混沌かつ猥雑、異教ムード漂う物語世界と一体不可分のものとして彩るのです。
――と、こうして書けば書くほど、本作が未完であることが口惜しくなってきます。
特に、この第Ⅰ巻の時点ではほとんど顔見せ状態ながら、後にヘリオガバルスの名で知られる印象とは全く異なる姿で登場した少年、ウァリウス・バシアヌス・アントニヌスが、今後どのように変化するはずだったのか?
後に「史上最悪」と呼ばれた彼の行状と、エラの存在があるいは重なることになったのでは、と想像するだけでゾクゾクするのですが……
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