2017.10.19

正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇1 帰ってきた最も面白い水滸伝!

 1998年からweb連載が開始、今なお書き継がれている『絵巻水滸伝』――私の信じるところでは、原典ベースの水滸伝リライトで最も面白い作品の、第二部の書籍化がついにスタートしました。梁山泊に集結した百八人の豪傑のその後が、ここに再び語られることになります。

 絵・正子公也、文・森下翠という担当で描かれてきたこの『絵巻水滸伝』。「絵巻」という語からもわかるように、言うなれば本作は絵物語――文章に挿絵が付されたというより、文章と挿絵が対等な作品であります。

 最近は戦国武将のイラストでも知られる正子公也の美麗かつ独自の解釈の加えられた挿絵と、原典をきっちりと踏まえ押さえつつも、そこに欠けた部分・矛盾した部分を巧みに補った森下翠の文章。
 その二つが絶妙に絡み合った本作は、現在進行中の、いやこれまで日本で書かれた水滸伝リライトの中でも、ほとんどベストに近い内容のものであると、連載開始時から私は確信しているところです。

 さて、原典の120回本でいえば第71回まで、梁山泊に百八人の豪傑が集結するまでを描いた第一部は約10年前に完結し、全10巻で書籍化&電子書籍化されていますが(なお、今後書籍版が全20巻に再編集の上、再版されるとのこと)、今回刊行されるのはその続き、第71回からの「招安」篇全5巻であります。

 招安とは、簡単に言えば国が賊の過去の罪を許し、帰順させて軍に編入すること。国から見れば討伐のための様々なコストを省いた上に精強な軍を手に入れることができ、賊からすれば身の安全と職を手に入れられるという、ある意味win-winの関係であります。
 後者が「自由」を失うことを除けば――

 この第二部のベースとなっている原典の第72回以降は、招安を受けて帰順した梁山泊が、宋国のために遼国や叛徒たちを討ち平らげる物語。
 フルメンバーの豪傑たちが並み居る敵を蹴散らしていくのは、それなりに痛快ではありますが――しかし(戦争続きでかえって平板という構成上の問題点はさておき)大前提として、豪傑たちが招安を受け、国の下についてしまったという点で、ファンにとっては評価が厳しくなってしまうのは無理もない話でしょう。


 その招安を、本作はどのように描くのか――それはまだ先の話で、今回取り上げる第1巻に収録されているのは、原典の第72回から第75回までに当たる部分。
 東京に潜入した宋江たちが李師師と出会い、李逵と燕青が偽宋江を退治し、燕青が泰山奉納相撲で任原を破り、朝廷の使者の高慢さに怒った豪傑たちによって招安が決裂し……というくだりであります。

 このとおり、招安を巡る物語としてはまだ冒頭、第二部の特色とも言うべき大規模な戦争もまだ描かれていないのですが――しかしもちろん、それでも本書は面白い。
 ここで描かれているのは、いわば梁山泊が最も梁山泊であった頃。百八人の豪傑たちが梁山泊に集い、好き勝手に暮らしていた頃なのですから。

 そんな彼らの生き生きとした姿(その描写も『絵巻水滸伝』の大きな魅力であります)だけでも楽しいのですが、そこにさらに本作ならではの捻りが随所に入るのがたまらない。
 梁山泊で相撲といえばこの人、でありながら泰山相撲で出番がなかったあの好漢のエピソードが用意されていたり、その泰山相撲の中で今後重要な役割を果たすキャラクターが登場していたり……

 そのまま読んで面白いのはもちろんのこと、水滸伝ファンであればあるほど楽しい、そんな仕掛けが本書には仕掛けられています。

 正直なことを申し上げれば、この118頁で1944円という価格は決して安いものではないかもしれません。しかし、フルカラーということを考えればこれはやむなしといったところでしょうか(サイズ、想定とも邦訳アメコミを連想していただければよいかと思います)。
 何よりも本書は、豪傑たちの鮮やかな活躍を、手に取って「読み」「見る」楽しみを与えてくれるのですから……


 ちなみにこの第1巻には、招安篇に登場するキャラクターや用語等の紹介、地図等が収録された小冊子も付録となっており、これもまた嬉しいところであります。
 まずは全5巻、豪傑たちが朝廷との対峙の果に何を掴むのか、見届けたいと思います。


『絵巻水滸伝 第二部』招安篇1(正子公也&森下翠 アトリエ正子房) Amazon
絵巻水滸伝 第二部 招安篇1(付録小冊子付)


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2017.10.15

北方謙三『岳飛伝 十 天雷の章』 幾多の戦いと三人の若者が掴んだ幸せ

 梁山泊対金、梁山泊対南宋――北で、南で、海で繰り広げられる戦いはいよいよ佳境に向かい、北方『岳飛伝』もついに二桁の大台に突入。波乱に次ぐ波乱の末に、次代を背負う若者たちに、それぞれの幸せが訪れるのですが――しかしそれで安心できないのが北方大水滸の恐ろしさであります。

 共通の敵のために同盟を結んだ金と南宋、それぞれを迎撃することとなった梁山泊。
 梁山泊近くでは呼延凌と兀朮が率いるそれぞれの本隊が激突、南方では梁山泊と岳飛双方に因縁深い辛晃が秦容と岳飛を窺い、そして海上では張朔と韓世忠の水軍が一進一退の攻防を見せることになります。
 そしてこれらの戦いの陰では、米と麦の買い占めにより相手国の根底を揺るがそうという、いわば経済戦争(というより経済攻撃)というべき、梁山泊の奇策が……

 そして、互いの首を狙って呼延凌と兀朮がいつ果てるともしれぬ戦いを続ける中、ついに正面から激突する史進と胡土児。互いの策の読み合いの末、韓世忠に父譲りの飛礫を放つ張朔。その張朔の命令で、造船所焼き討ちという死地に向かう狄成と項充。ついに秦容と手を携え、辛晃の心理を読み取って乾坤一擲の勝負に出る岳飛。
 彼らだけでなく、今は商人として活動する王清や蔡豹もまた、それぞれの立場で戦いに参加することになります。

 物語の舞台の広がりに伴い、各地で同時進行的に繰り広げられるこれらの戦いは、中盤のクライマックスに相応しいものというべきでしょう。
 個人的には、梁山泊にとっては鬼門である造船所焼き討ちに向かう狄成と、彼に強引に付き合う項充の二人のエピソードが、その結末も含めて、実にグッとくる内容でありました。


 さて、戦いが奪うもの、失うものだとすれば、生まれるもの、与えるものもまたあります。この巻においては、これらの戦いと並行して、あるいは戦いの後に、三人の若者たちが伴侶を得る姿が描かれることになります。

 王貴、王清、蔡豹――王貴と王清は異母兄弟、そして王清と蔡豹は子午山で兄弟同様に育ったという関係にある三人が、それぞれ全く異なる形で、しかしこのように同時期に素晴らしい伴侶を得たのには、彼らが生まれる前から物語を追いかけてきた身にとっては何やら感慨深いものがあります。

 特に王貴と岳飛の娘・崔蘭の結婚は、以前からずっと引っ張られていただけにようやく――といったところですが、何よりも花嫁の父たる岳飛のリアクションが面白い。

 王貴に対しては唸るだけで、思わぬ形で月下氷人となった蕭炫材(ちなみにこの巻で一番化けたのは彼ではないかと思います)に当たり散らし、真情を吐露する姿が、何とも人間臭くて良いのです。
 この辺りは、本作の始まりから一貫して描かれてきた、これまでの物語の主人公たちとはまた異なる彼の魅力が、強く出ていると言ってもよいでしょう。

 そしてまた、ここしばらくはある意味一番危なっかしかった王清が、複雑な関係にあった鄭涼と結ばれることになったのも嬉しい。
 特に王清の象徴とも言える笛を通じて描かれる二人の交流が感動的で、彼の心を受け止めてみせた鄭涼は、本作において今のところ最も好感の持てる女性とすら感じられます。

 そして蔡豹――母から義父への怨念を吹き込まれ、さらに目の前でその母が首を吊るという過去から深いトラウマを背負っていた彼も、ある意味意外と言えば意外な相手を見つけることになります。
 子午山でも癒やせなかった深い闇を背負ってきた彼が、ついにそれから解放され、自分が真に戦うべき理由を見つける場面は、これもまた感動的なのですが……


 しかしこの巻において、本作が、いやこの大水滸が、どれだけ人の命において無情な――いや無常な物語であるかを、我々は嫌と言うほど思い出さされることとなります。
 あまりにあっけない、そしてあまりに無惨な死。死の重みに軽重をつけることは、本来であれば許されるものではないかもしれませんが、しかしここで描かれるそれは、戦場でのその他の死よりもはるかに重く、衝撃的なものであったと言うほかありません。

 この巻においてもう一つ印象的な、梁山泊と替天行道の在り方、そしてその行方も含め、まだまだ進んでいく道は、その行き着くところはわからない――そんな印象を新たにしたところでもあります。


 しかし梁紅玉が出会った日本人「炳成世」、人から言われて気づいたその正体に吃驚……


『岳飛伝 十 天雷の章』(北方謙三 集英社文庫) Amazon
岳飛伝 十 天雷の章 (集英社文庫)


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 北方謙三『岳飛伝 九 曉角の章』 これまでにない戦場、これまでにない敵

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2017.09.28

北方謙三『岳飛伝 九 曉角の章』 これまでにない戦場、これまでにない敵

 全17巻の折り返し地点を超えた北方『岳飛伝』第9巻。これまで一時の平穏を保っていた中華――いやその周辺を含めた世界ですが、ここに来て梁山泊を中心に一気に戦いの火蓋が切って落とされることになります。しかしその戦いの様相は、これまでとは少々違ったものとなることに……

 淮河を境界に、にらみ合う形となった金と南宋。緊張を孕みつつも一種の膠着状態となっていた両国にとって共通の敵は梁山泊。
 梁山泊を領内に抱える金と、梁山泊とはいわば宿敵の間柄の南宋と――まずはともに頭痛の種である梁山泊を潰すために、両国は密約を結ぶことになります。

 そしてその密約を踏まえてまず動き出したのは南宋であります。
 韓世忠率いる南宋水軍は、前巻の時点で既に梁山泊の交易船を襲撃したものの、これはあくまでもジャブのようなもの。彼の水軍による梁山泊の海上の拠点・沙門島攻めにより、梁山泊第一世代の一人が命を散らすことになります。

 一方、秦容が順調に開拓を続けてきた南方では、開拓の中心であった甘蔗園が、そして新たな形の街である小梁山が、奇怪な武器を操る謎の敵の襲撃を受け、多大な犠牲を出すことに。

 さらにこれらと期を一にして梁山泊に迫る兀朮率いる金軍本隊。北で、南で、海上で、様々な形と規模で、三つの国の戦いが始まったのであります。


 というわけでついに本格開戦となった第9巻ですが、しかし戦いの様相はこれまでの戦いとはいささか異なるものとなっているのが目を惹きます。

 何しろ、水軍同士の戦いといっても、河や湖ではなく、海の上での話。この戦いの始まりとなった沙門島攻めは格別、普段の戦いは広い海上で、遭遇戦の形で繰り広げられることとなります。
 さらに水軍にとっては船以上に人が――経験を積んだ水夫が――重要。さらに当然ながら船の存在も欠かせないことから、いきおい戦いは総力戦という形にはなりにくいのであります。

 そして南方の戦いですが――こちらはそれ以上にこれまでと全く異なる戦いと言ってもよいかもしれません。
 何しろ、秦容たちの入植地を襲うのは、グルカ兵を思わせる高地民族の傭兵。ブーメランのような飛刀を操り、尋常ではない運動能力を持つ彼らには、奇襲を受けたとはいえ、梁山泊の兵たちも大いに苦しめられることになるのであります。

 これまでにない戦場、これまでにない敵――物語の舞台が大きく広がった本作に相応しい戦いの形と言えるかもしれません。


 が、それでも梁山泊は梁山泊なのがたまらないのであります。
 沙門島壊滅に対しては、報復のために史進の遊撃隊がなんと南宋の首都・臨安に突撃あいrw、禁軍を粉砕。高地兵に対しては、秦容が単身半数以上を文字通り叩き潰し、逆に味方につけるために、高山に乗り込むことに……

 ここしばらく、梁山泊自体が、一つの「場」というよりも「運動体」へと移行していったこともあり、激しい戦いは久しくなかった印象もある梁山泊。
 しかしここで描かれた史進の、秦容の活躍は、初期梁山泊のそれを思わせるような破天荒かつ痛快なもの。特に史進の無茶苦茶な突撃には、敵であるはずの南宋軍人までもが「痛快」と評するほどなのですから……
(もっとも、その背後には史進の深い屈託があるのですが……)


 そしてもう一つ、梁山泊は破天荒な攻撃を仕掛けることになります。それは一言でいえば「国の兵站を切る」――麦を、米を買い占め、流通を支配することで、相手の国そのものに圧力をかけようという凄まじいスケールのものであります。

 武と武の戦いが、局地戦にしか見えないようなスケールのこの攻撃は、この『岳飛伝』における新・新生梁山泊ならではのものと言うべきでしょう。

 果たしてこの攻撃がいかなる効果を上げるのか――それを含めて、海上の、南方の、そして梁山泊の戦いの行方が(ことに、これでもかとフラグを立てまくった狄成の運命が)、気になって気になって、仕方ないのであります。
 そしてその中でのタイトルロールたる岳飛の役割も……


『岳飛伝 九 曉角の章』(北方謙三 集英社文庫) Amazon
岳飛伝 9 曉角の章 (集英社文庫)


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 北方謙三『岳飛伝 八 龍蟠の章』 岳飛の在り方、梁山泊の在り方

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2017.09.15

北方謙三『岳飛伝 八 龍蟠の章』 岳飛の在り方、梁山泊の在り方

 北方大水滸伝の最終章も折り返し地点間近、史実を離れて南宋に処刑されなかった岳飛の戦いが、いよいよここから始まることになります。同盟を結んで梁山泊に当たらんとする兀朮の金と秦檜の南宋が暗躍し、海上で、南方でいよいよ戦いの火蓋が切って落とされる中、岳飛と梁山泊がついに……

 国家と民族を巡る考え方の違いの末に秦檜と対立し、処刑されるところを、梁山泊の助けで南方に逃れた岳飛。元・岳家軍の兵たちが集まり始める中、彼は再起に向けて動き出すことになります。
 といっても初めはたった二人で始めた新生岳家軍、兵は集まっても彼らを食べさせ、備えさせるには先立つものが――ということで、軍閥として立っていた頃からは考えられない苦労をすることとなった岳飛たちですが、しかし梁山泊の、地元の住民たちの、そして友人とも仲間とも言うべき大商人・梁興の助けで、その力を蓄えていくことになります。

 しかしそんな中でも中原での状勢は刻一刻と変化し、宿敵であったはずの金と南宋の同盟は秒読み状態。それぞれに北と南にまつろわぬ国を抱えながらも同盟を結んだ両国の敵は、もちろん梁山泊であります。

 そんな中、日本からの帰路で遭難した梁紅玉を張朔の船が救助したことから、勝手に瞋恚を抱いた韓世忠が、半ばそれを口実に王貴の船を襲撃(また襲われ役……)。小規模とはいえ、ついに南宋と梁山泊の水軍の間の戦いの火蓋が切って落とされることになります。
 一方、国力増強のために南方を傘下に治めんとする秦檜の命により、南宋軍が阮廉の村を襲撃。新生岳家軍はこれを完膚なきまでに打ち払ったものの、もちろんこれが第一歩に過ぎないことは言うまでもありません。

 かくて梁山泊と南宋、さらに金との間が一触即発となる中、その最前線とも言うべき南方では、ついに岳飛と秦容が対面することに……


 というわけで、いつまでも岳飛の生存に驚いている場合ではなく、いよいよ風雲急を告げる物語。岳家軍と金の全面対決が終結して以来、しばらく大きな戦が描かれなかったこの物語ですが、束の間の平穏はついに破られることとなります。

 と言ってもこの巻で描かれるのはまだまだ局地戦も局地戦――小競り合いというか、感触を探る程度に過ぎないレベルであります。本気になれば数万、数十万単位のぶつかり合いとなる、国と国との戦いにはまだほど遠い状況ではあります。
 しかし戦いそのものもさることながら、そこに至るまでに、各所で蓄えられた力がグツグツと煮えたぎっていく様がまたたまらないのは、これまで同様。致死軍が思わぬ形で金に食い込めば、ほとんど唯一それに気付いた蕭炫材がこれに抗しようとし――というくだりなど、初期の梁山泊の戦いを思わせてくれます。

 そして山岳戦という思わぬ形で活路を見出そうとする岳家軍の特訓も続き、全面対決が始まった時に何が起こるのか、楽しみになるばかりなのであります。


 しかし――この巻のハイライトは、別のところにあります。

 中原を漢民族の手に取り戻すために戦ってきた岳飛。しかし故国であったはずの南宋に命を奪われかけ、南方に落ち延びてきた彼に、これまで同様の戦いができるのか。何を戦いの目的とすべきなのか――その答えが、彼とも梁山泊とも関係の深い梁興の口から語られることになります。
 梁山泊が水だとすれば、おまえは器を作ればいい。器が良ければ水はその中にきれいに収まる――と。

 その一方で、秦檜は南宋を器にし、同時に水にしようともしているという評も興味深い。
 これまで何となくわかっていたようで、明確に示されていなかった三者の在り方の違いが、彼らのことを深く知りつつ、独自の距離をおく梁興の口から語られるというのは、これは見事な構図と感じさせられます。

 ここに金が加わった四者の戦いで、その関係はどのように変わっていくのか。既に一種の概念となった梁山泊を、岳飛は見事に受け止めることができるのか――いよいよ物語は中盤、戦いの始まりの時であります。


『岳飛伝 八 龍蟠の章』(北方謙三 集英社文庫) Amazon
岳飛伝 8 龍蟠の章 (集英社文庫)


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 北方謙三『岳飛伝 七 懸軍の章』 真の戦いはここから始まる

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2017.07.20

北方謙三『岳飛伝 七 懸軍の章』 真の戦いはここから始まる

 岳飛死す――と思いきや、梁山泊の介入により生き延び、南方へ脱出という驚天動地の展開を迎えることとなった北方岳飛伝。ただ一人、大理国に足を踏み入れた岳飛の新たな戦いが始まる一方で、梁山泊も西へ東へ南へと活動を続けるのですが――しかし南宋も不気味な動きを見せることになります。

 秦檜による南宋軍総帥への就任要請を断り、謀反の罪を着せられて処刑を待つ身となった岳飛。しかし呉用の「岳飛を救え」の言葉によって動いた燕青は、南宋皇太子の正統を揺るがす印璽と短剣と引き換えに岳飛を救出することになります。
 致死軍のフォローによって南宋を脱しかつての部下の姚平とただ二人、雲南大理国に逃れた岳飛。かつての岳飛軍を糾合するという姚平が北に戻り、ただ一人森に残った岳飛は、その中で己を見つめ直すことに……

 悲劇的な最期を遂げるはずの岳飛が生き延びてしまうという、意外と言えば意外な展開を経てのこの巻で描かれるのは、岳飛と岳家軍の新たな旅立ち。
 戦いには負け続け、それでも生き延びて、南宋最強の戦力となった岳飛ですが、今度こそ絶体絶命――というところで辛うじて拾った命のほかは無一物の状態から、彼は再び立ち上がることになります。

 どん底といえばどん底の状態にあって、ただ己の生を確かめるように、塒の周囲の開墾に没頭する岳飛の不器用な姿は、これはこれで実に彼らしい。
 そこには、決して超人的な英雄ではなく、ただ一人の人間――それも極めてしぶとく、そして非常に魅力的な人間として生きてきた彼らしさが溢れていると言えるでしょう。

 そしてそんな彼の下に、散り散りとなった岳家軍の男たちが馳せ参じる姿は、実に感動的であり――岳飛の戦いは、すなわち岳飛伝は、真にここから始まるのだ、と感じされられるのです。


 とはいえ、この物語世界で生きるのは、岳飛のみではありません。梁山泊も南宋も金も(金は今回は出番少な目ですが)そこに生きる者たちは、皆、自分たちの生を懸命に生きているのです。

 部下を叱咤激励して、十万人規模の都市・小梁山建設に着手した秦容。あの史進や呼延凌をやきもきさせた末に微笑ましいプロポーズを決める宣凱。かつて己の指揮で消えた無数の命を埋め合わせるように、西域で非戦の想いを貫く韓成。そして戦場で己の父の命を奪った岳飛と対面する張朔……

 どの登場人物も、これまでに積み上げてきた自分たちの生き様のその先を掴むべく、必死に生きる様が実に気持ち良い。
 もうこのまま、こいつらの生き様を延々と見ていたい――いささかオーバーに言えば、そんな気持ちにもなるのです。

 そしてその中で、個人的に一番刺さったのは、韓成の姿であります。

 岳飛伝開始時は、妻との関係が冷え切り、彼女に子供を押しつけるようにして、仕事に没頭するという、ある意味非常に現代的なダメお父さんとして登場した韓成。
 しかし西域に招かれ、帝の命でまつろわぬ部族を統合することとなった彼は、そこで思わぬ心の強さを見せるのです。戦を、人の命が失われることを嫌い、言葉でもって相手を説得しようとすることで……

 そんな彼の行為は、端から見れば綺麗事、空虚な理想主義にしか見えないかもしれません。しかし彼が背負ってきたもの、彼を腐らせた本当の理由を知れば、その決意を笑うことなどできようはずがありません。

 この巻で描かれる、彼と妻子の再会の場面――特に彼が、息子の馬にある名前をつけるシーン――は、そんな彼の復活の姿を描くものとして、男泣きの名場面なのであります。(それでもなお、百%報われるわけでもないところがまたいい)


 と、韓成の話ばかりになってしまいましたが、梁山泊の面々が活躍する一方で、南宋の暗躍も続きます。
 岳飛を切り捨ててまで南宋復活までの時間を稼いだ秦檜は、南進しての国力増強と、北の金と結んでの梁山泊攻撃を企図。その時に秦檜から秦容の小梁山を守る盾となるのは、そう、新生岳家軍……!

 因縁の対決はすぐ目の前に迫っているのか――それはわかりませんが、つかの間の平和が破られる日が遠くないことだけは間違いありません。

(ちなみに南宋といえば、それまで散々斜に構えてきた韓世忠が家庭を持っていきなりリア充的になったのも、妙に印象に残るところであります)


『岳飛伝 七 懸軍の章』(北方謙三 集英社文庫) Amazon
岳飛伝 7 懸軍の章 (集英社文庫)


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 北方謙三『岳飛伝 六 転遠の章』 岳飛死す、そして本当の物語の始まり

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2017.06.15

北方謙三『岳飛伝 六 転遠の章』 岳飛死す、そして本当の物語の始まり

 好敵手・兀朮率いる金軍との大決戦をほぼ互角の形で終え、帰還した岳飛。この先を巡り、南宋を代表する秦檜と対峙する岳飛ですが――史実を考えれば、岳飛と秦檜の対立の先にあるものはただ一つ。しかしそこで梁山泊が思わぬ役割を果たし、本作は新たな領域に踏み込んでいくこととなります。

 互いに数十万の軍を率いながらも、最後は一対一に等しい死闘を繰り広げた末、共に矛を収めた岳飛と兀朮。岳飛は岳家軍の本拠に帰還したものの、秦檜から臨安府への出頭を命じられることになります。
 一方、梁山泊では呉用が「岳飛を救え」という言葉を遺して息を引き取り……

 という嵐の予感から始まる第6巻ですが、前半は比較的静かな展開が続きます。

 理由を付けて出頭を引き伸ばす岳飛は、またもやふらりとごく僅かな人数で旅に出て蕭炫材と出会い(ここで蕭炫材の父・蕭珪材のことを語る二人が実にいい)、秦容は相変わらず南方開拓に精を出し、宣凱は微妙にフラグっぽいものを立てたり……
 その中で、燕青のみは岳飛の遺言を踏まえ、一人動き始めるのですが、それはさておき。

 しかし中盤からこの巻は、いやこの物語は、激動とも言うべき展開を見せることになります。
 ついに臨安府に出頭して帝に拝謁した岳飛に対し、岳家軍を解体し、南宋軍の総帥に就くよう迫る秦檜。それを拒否した岳飛は、秦檜に捕らえられることになるのですが――この対立の根底にあるのは、二人の男にとっての、国の在り方であります。

 それは民(民族)を取るか、国(政体)を取るかという、物語の冒頭から描かれてきた二人にとっての国の在り方の違い。
 金に取り残された国の民を救うために戦いを続けようとする岳飛と、南宋が再び中原に君臨するため今は休戦して国力を蓄えようとする秦檜と――二人にとって国に尽くすということは、その根本において大きく異なるのです。

 しかし、岳飛が秦檜の言葉を拒絶するのは、国に逆らうということ、すなわち国家への反逆に等しいことでもあります。かくて岳飛は謀叛人として処刑されることに……


 ついに来たか、という印象であります。実は主戦派の岳飛が、和平派の秦檜と対立の末、謀叛の科で処刑されるというのは、これは史実どおりの展開なのですから。

 理想を胸に抱いて戦い続けながらも、道半ばにして、周囲から汚名を着せられた末に斃れる――これはある意味、実に作者の作品の主人公らしい最期と言えるでしょう。
 当然、この『岳飛伝』の結末は、この岳飛の最期であろうと考えていたのですが……

 が、ここで物語はとてつもない動きを見せることになります。上で述べたように、呉用の遺言に動き始めた燕青。その彼と梁山泊致死軍が、岳飛救出のために動き出すのであります。そう来たか!

 もちろん、南宋の首都深くに囚われた岳飛を救い出すのは容易ではありません。果たしていかにして岳飛を救い、そして逃がすのか……
 その詳細はここでは伏せますが、ここで使われるのが、はるか以前に描かれていたあの伏線であり、そしてそれが南宋という国の正当性すら揺るがしかねないものという皮肉さが実に面白い。

 しかしそれ以上に盛り上がるのは、岳飛救出のために出動した致死軍の活躍であります。
 しばらく大きな動きを見せることがなかった致死軍ですが(そしてそれはそれで当然なのですが)、ここで彼らが見せた動きは、何とも痛快なもので、実に「水滸伝」らしいと感じさせてくれるのが嬉しいのです。


 何はともあれ、表向きは処刑されたものの、その実、梁山泊により救出された岳飛。
 なるほど、本作における梁山泊の役割の一つはここにあったか、と感心させられたのはさておき、ここにおいて物語は史実から大きく異なる領域に踏み出すこととなります。

 梁山泊に加わることなく、同じく死んだはずの身の姚平を供に、南へ南へ、雲南は大理国を目指す岳飛。
 奇しくも南方は、国力増強を目指す秦檜が目を向ける先であり、そして秦容が新天地として開拓を続ける地でもあります。

 この先の物語の中心となるのは南方なのか――それはまだわかりませんが、ある意味これからが、真の北方『岳飛伝』の始まりであることは間違いありません。


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岳飛伝 六 転遠の章 (集英社文庫)


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 北方謙三『岳飛伝 五 紅星の章』 決戦の終わり、一つの時代の終わり

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2017.05.26

北方謙三『岳飛伝 五 紅星の章』 決戦の終わり、一つの時代の終わり

 なおも続く南宋と金、岳飛と兀朮の全面衝突。兀朮を追い北進を続ける岳飛と、迎え撃つ兀朮の決戦の末に待つものは――。そして梁山泊でも、一つの時代の終わりを告げる出来事が起きることになります。

 兀朮の指揮下に南進してきた金軍三十万を迎え撃つこととなった岳飛率いる南宋軍二十万。機動力で勝る金軍の騎馬隊に対し、岳飛は地に伏せた歩兵の長刀による攻撃で反撃、金に大打撃を与えることに成功します。
 そして中原の漢民族を解放するため、北方に引いていく兀朮を追う岳飛ですが、これは同時に危険な賭けでもあります。かつての宋国領といえど今は敵地において、兵站もままならぬ中、戦いを続けることとなるのですから。

 そして互いに相手を倒してこそ勝利があると思い定めた岳飛と兀朮は、それぞれ数万にまで軍を減らし、ほぼ互角の条件下で真っ向からの勝負を挑むことに……


 前巻から、いつ果てるともなく続く岳飛と兀朮の死闘。冷静に考えれば単行本にして一冊程度なのですが、とにかく戦いまた戦いの連続は凄まじい密度、作中の羅辰や??律のように、見ているだけで魅入られ、力をすり減らしてしまいそうな戦いが続きます。
 そしてそれでも戦いを止めぬ二人は、数万の軍を率いながらも、ほとんど一騎打ち、それも素っ裸で正面から殴り合うような戦いを続けるのですが――いやはやこのくだりは、『岳飛伝』でも名勝負の一つに数えられるであろう凄まじい戦いであります。

 しかし如何なる戦いにも終わりはあります。そして如何なる戦いも、始めるより終わらせるのが難しいのですが――南宋、金の両陣営とも「その後」に向けて戦いの最中から動き出し、そして岳飛はその動きに絡め取られて苦しむことになります。

 この彼の悩み・苦しみは、戦いを求める個人である戦人と、組織の一員である軍人の間のジレンマと言えるでしょう。戦いの最中に陣を訪れた宣凱に戦いの後のことを問われて、正直に自分にはわからんと言ってしまう岳飛にとっては、それはある意味兀朮以上の強敵かもしれません。
 そして似た者同士であっても、王族であるためか、兀朮の方がこうした状況を素直に受け入れているのが興味深く、また、かつてその状況に飲まれてしまった老いたる禁軍総帥・劉光世の岳飛への言葉もまた熱いのですが……


 そんな岳飛の悩みは、史実の上での彼の運命に繋がっていくことになるのですがそれはさておき、一方の梁山泊サイドは、ひたすら自由に、そしてひたすら壮大に、活動を広げていくことになります。
 海を越え、藤原氏の治める奥州を訪れた張朔。西遼フスオルドに向かい、西方の部族の平定を任された韓成。秦容は南方で甘庶糖を生み出すために悪戦苦闘し、王清は振られた末に変に達観して放浪し……

 梁山泊を離れ、それぞれの生を生きる二世世代たち。一人一人が物語の主人公として活躍(流されてるだけの人間もいますが――)する姿は、実に魅力的であり、これまでになかった新たな梁山泊の姿を感じさせてくれます。
 個人的には、家庭に倦んで仕事に逃げた韓成が、今まで梁山泊の人間には見られなかった形で人間性を顕わにする姿に、大いに心動かされた次第です。


 そして、若者たちが表舞台に躍り出る一方で、舞台から退場していく者もいます。それは呉用――楊令亡き後の頭領として、敢えて無為の姿を見せることで新たな梁山泊の在り方を提示した呉用が、この巻においてついにこの世を去ることになります。

 既に残すところ数えるほどしか残っていない初代梁山泊の生き残りであり、その中でも首脳陣の一人として色々な意味で活躍してきた呉用の最期は、一つの時代の終わりと言っても過言ではないでしょう。

 既に相当の老齢となり、この数巻は床に伏した姿で登場していた呉用。それでいて核心に迫ったような言葉を残してきた彼は、その後継者たる宣凱に対し最期の言葉を残すことになります。

 幾つかあるその言葉はいずれも印象的ですが、個人的に特に心に残ったのは、「心に梁山泊がある者が、梁山泊を作る」という言葉であります。
 上で述べた、場所としての梁山泊を離れて生きる若者たちの有り様を指し示したが如きこの言葉は、あるいは本作のたどり着くところを示しているのではないか――そんなことすら感じさせるではありませんか。

 そしてもう一つ、宣凱に対する最後の指令とも取れる言葉――この先の展開を予告するかのようなその言葉は、おそらくは梁山泊の、そして岳飛の運命を大きく動かすと思われるのですが……


 いよいよ両者が大きく交錯することになるのか――歴史を大きく動かす前半のクライマックスも間近であります。


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岳飛伝 五 紅星の章 (集英社文庫)


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 北方謙三『岳飛伝 四 日暈の章』 総力戦、岳飛vs兀朮 そしてその先に見える国の姿

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2017.05.11

北方謙三『岳飛伝 四 日暈の章』 総力戦、岳飛vs兀朮 そしてその先に見える国の姿

 早くも総力を挙げて激突することとなった岳飛率いる南宋軍と兀朮率いる金軍。梁山泊はそれを静観する形となりますが……その一方で秦容ら南方開拓団は厳しい自然を相手に奮闘を続けるなど、独自の動きを展開することになります。まだまだ混沌とした情勢の中、次に動くのは――

 梁山泊軍との激闘の結果、結果として撃退された形となり、その後、梁山泊と対等な講和を結ぶこととなった金国。しかし梁山泊と講和としたということは、裏を返せば後顧の憂いなく南宋と対決することができるようになったということでもあります。
 かくて実に三十万のとてつもない規模の軍を動かし、南進を始めた兀朮。これに対し、南宋は岳飛の軍に加え、再編されつつある地方軍を動かし、総勢二十万という、こちらも凄まじい規模の軍を動かすことに――


 というわけで、前巻の梁山泊vs金に続いて描かれることとなった南宋vs金の決戦。まだ第4巻という、全体の1/4にもならない時点で(という見方は反則かもしれませんが)、ここまで出し惜しみなしで一体どうなってしまうのか……といささか心配にもなりますが、これまでまさしく腕を撫していた岳飛にとっては、待ちに待った活躍の場であります。

 これまでこの大水滸伝に登場した大将クラスのキャラクターの中では、おそらく最も戦に負け、そしておそらくは最も人間臭い人物である岳飛。彼をタイトルロールとする本作が始まって以来、彼の動きは随所で描かれてきたのですが、しかしここまでの規模の戦いに参加するのは、これが初めてと言って良いでしょう。

 そしてその彼の戦いは、同時に彼の信じる「国」の在り方を示すものでもあります。彼が自らに課した想い……尽忠報国。ここでいう「国」とは、彼にとっては「民」の意。すなわち彼が守るべき国とは、金に制圧された地に生きる漢の民なのであります。
 それに対して、南宋の宰相たる秦檜にとっての「国」とは、帝を頂点とした統治機構のこと……従来の意味での「国」であります。

 南宋のために戦いつつも、その胸に抱く「国」の形は大きく異なる岳飛と秦檜。その違いが行き着く先がどこであるか、それは史実を見れば明らかではありますが、しかしそれに触れるのはまだ少々早いでしょう。
 ここでただ述べておくべきは、本作の秦檜は、彼は彼として宋という国を案じているということでしょう。そしてそれは決して彼の私利私欲から出たものではないのですが……だからこそやりきれないものではあります。


 その一方で、本作においては、こうした二つの国の在り方とはまた異なる国の在り方を提示する者たちがいます。
 言うまでもなくそれは梁山泊。そしてその中心であった楊令が提示した「国」とは、秦檜のような統治機構ではなく、岳飛のような民族に縛られるものではなく、それを超えて広がるもの……「流通」を中心として、地域と民族を超えて繋がる人々の共同体的存在と言えるものであると言えます。

 現代にいう一種のグローバリゼーションであり、そして今なお完全に確立しているとは言い難いその「国」の概念が、当の梁山泊の人間にとっても漠然としか理解できていないのはむしろ当然ではあります。しかしその姿が、岳飛や秦檜の抱く「国」と照らし合わせることで徐々にその姿を鮮明なものとしてくるのが実に興味深い。
 そしてそれを体現するのは、南方で甘藷を栽培すべく悪戦苦闘を続ける秦容たちであり、交易路を広げるために宋を、中華圏を離れて旅する張朔であり、王貴なのでしょう。

 そして、こうして「国」の概念が変わっていけば、それを束ねる想いもまた変わらざるを得ません。
 これまでも本作において、新・新梁山泊において語られてきた「志」の存在。時として梁山泊に集ってきた者たちを縛ってきたその志にも、変化の兆しが現れます。呉用と宣凱、呼延凌の対話の中で現れた、それを象徴する言葉、それは「夢」――

 もちろん、まだまだ新たな「国」の形が明らかになったわけでも、そしてそれが正しいものであるかどうかも示されたわけではありません。それを束ねるのが本当に「夢」であるのかどうかも。
 しかしこれまでの戦いを考えれば時にあまりに漠然とも感じられるその言葉は、それぞれの道を歩み始めた梁山泊の人々を結ぶものとして、相応しいものとして感じられます。

 そしてその「夢」は、岳飛とも共有されることとなるのか。それが異なる想いを抱く人々を結ぶのであれば、異なる国を繋ぐものともなるのではないか……それこそ夢のような話ではありますが、本作の向かう先はそれではないか、とも感じてしまうのです。


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岳飛伝 四 日暈の章 (集英社文庫)


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2017.03.21

北方謙三『岳飛伝 三 嘶鳴の章』 そして一人で歩み始めた者たち

 北方大水滸の第三部たる本作も、開幕したばかりのこの巻において早くも大戦が展開。梁山泊にとっては怨敵である金国の大軍に対し、梁山泊の精鋭たちが挑むことになります。しかしその戦いの先にあるのは意外な展開……そしてその先では南宋が、岳飛がそれぞれ独自の動きを見せることになります。

 数々の痛手から復活しつつも、楊令時代とは異なり、聚義庁の明確な方針なく、各人にその向かう先が委ねられた梁山泊。そんな新・新梁山泊に戸惑う間もなく、兀朮と撻懶率いる金軍二十万が梁山泊に迫ります。

 対する梁山泊軍は八万、数こそ倍以上の差がありますが、しかし兀朮といえば間接的とはいえ楊令の死の原因を作った相手。これこそ仇討ちの好機と、勇躍迎え撃つのは、呼延凌・秦容・蘇琪・山士奇そして史進と、現時点のベストメンバーであります。

 そして繰り広げられる戦いはまさしく一進一退。正面からの激突あり、奇襲あり、探り合いあり、突撃あり……多大な犠牲を払い、ありとあらゆる手を尽くした後に、梁山泊はほぼ勝ちに等しい引き分けを掴むことになります。
(ここで最後の一撃となった攻撃が、全盛期の梁山泊的というか、実に痛快極まりないもので実にイイ)

 しかしこの時点で本書はまだ四分の一程度、これだけ見れば随分とあっさり終わったようですが、しかしある意味真の戦いはここから始まることになります。

 この機を捉えて、金に講和を結ぶ決定を下した梁山泊。その全権を任せられたのは宣凱……聚義庁に入ってまだ日の浅い若き文官であり、そして同様に金との交渉の最中に、父・宣賛を殺された青年であります。
 いきなり呉用からの指名でこの重責を担わされた宣凱は、悩み、苦しみ、恐れながらも、金国に乗り込んでいくことに――


 第3巻のMVPを挙げるとすれば、間違いなくこの宣凱ということになるでしょう。かつて父が命を奪われた金国に乗り込み、父の命を奪った相手と交渉に挑む。それもほぼ自分一人のみで。
 それを超人的な活躍で見事に成し遂げた彼には驚かされるばかりですが、しかし無事に帰ってきてから呼延凌に飲めない酒を飲んで絡む姿など、実に人間的な顔を見せるのも、楽しいところであります。

 そして、好むと好まざるとにかかわらず、一人で歩み始めた者は彼一人ではありません。

 恋に燃えて韓世忠の造船所で笛を吹く王清も、西域貿易の最中で慢心から思わぬ深手を負うことになった王貴も、そして何よりも、軍を退役して遠く南方の開拓に向かった秦容も――
 皆、一人ひとり、自分自身の考えで、これまでの梁山泊であれば考えられなかったような行動を取っているのです。

 しかしこれは言うまでもなく、前巻で語られた「志」の在り方、梁山泊の在り方と密接に関係するものであり……そしてそれはまた、これまで『水滸伝』『楊令伝』で描かれてきた物語の先にあるものであります。

 国を倒し、国を造ったその先にあったもの……それが個人個人の心の中にある自由、自主自律というべきものであった、というのはもちろん結論を急ぎすぎではありますが、現代の我々には非常に納得できるところではあります。
(そしてそんな国の在り方を模索していたと思われる楊令は、やはりあまりにも早すぎる人物であったとも……)


 しかしそれでも、一人では生きられぬ人々、土地とともに生きる人々は存在します。そしてそのために戦う者も。
 それこそが本作の主人公である岳飛ですが、彼は本書においても、一見マイペースな生き方を貫いているように見えます。
(兀朮にどうせ「つまらないこと」に燃えているのだろうと予想されたら、全くその通りだったのには思わず噴き出しましたが)

 一大勢力の長でありつつもフットワークが軽く、そしてどこかいじられキャラ的な彼の人物像は実に魅力的なのですが、しかしそれが彼の一面に過ぎないこともまた事実。
 これまではいわば雌伏の時であったわけですが……しかしこの巻のラストではいよいよ兀朮との戦が始まります。

 歴史を揺るがす戦いの行方は、そしてその中で明らかになるであろう岳飛の姿とは……こちらも注目であります。


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岳飛伝 三 嘶鳴の章 (集英社文庫)


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2017.02.15

北方謙三『岳飛伝 二 飛流の章』 去りゆく武人、変わりゆく梁山泊

 北方謙三の大水滸伝最終章の第2巻であります。楊令の死の衝撃が冷めやらぬ中、行くべき道を模索する梁山泊の人々。金と南宋の思惑が交錯する中、岳飛もまた迷いの中から少しずつ立ち上がっていきます。そして一人の偉大な人物がついに退場することに――

 楊令の死から半年後、梁山泊を襲った大洪水の水もようやく引き、その機能を取り戻しつつある梁山泊。しかし新頭領に選ばれた呉用の聚義庁は何ら命令を下すことなく、軍をはじめとする面々は、自らの、梁山泊の行動に迷いつつ、自分自身の判断で動き始めることになります。
 そして兀朮が南を、秦檜が北を窺い、それぞれに中国全土統一を狙う中、その間に立たされた岳飛は、力を蓄えつつも自分自身を見つめ直すことに――

 と、この巻の前半の展開は、第1巻からあまり大きな動きはないようにも見えます。が、ここで梁山泊にとって、そしてこの物語にとって、大きな事件が起きることとなります。
 それは王進の死……子午山に隠棲し、史進・鮑旭・馬麟・楊令・花飛麟・秦容・張平・ 王貴 ・蔡豹と、数多くの若者を導いてきた武人が最期を遂げることのであります。

 ある意味、原典とは最も大きく異なる人生を歩むこととなった北方大水滸伝の王進。
 作中最強レベルの実力を持ちながら梁山泊の同志となるわけではなく、しかし己の生に迷う梁山泊の若者たちを受け入れ、再生させる……そんな役割を彼は果たしてきました。

 個人的にはこうした人間再生工場とも言うべき王進の在り方には違和感を感じていたのですが(尤も、大水滸伝で初めて泣かされたのは鮑旭のくだりだったのですが……と、これは王母の功績かしら)、やはりその存在は、この大水滸伝の世界にはなくてはならないものであったことは間違いありません。
 そしてその最期もまた、この最強の武人に相応しい、身も蓋もない言い方をすれば無茶な挑戦でありつつも、しかし荘厳さを感じさせる見事なものであったと言うべきでしょう。

 しかし同時に王進の退場は、大水滸伝の世界が大きく変貌しつつあることの、一つの表れなのかもしれません。
 何しろ、この第2巻で描かれる、梁山泊の幹部クラスが一同に会して行われる大会議においては、梁山泊の在り方、その根底にある志――替天行道の在り方までもが、問い直されることとなるのですから。

 大水滸伝における「志」の存在については――これはたぶんに原典の野放図な梁山泊の印象が残っていたために――これも個人的には大いに引っかかっていたのですが、しかし物語と大前提として受け容れてきました。しかしその大前提すら、一種の疑いとすら言える眼差しを向けてくるとは……
 大水滸伝は、こちらの想像していた以上に柔軟な存在、物語世界自体が一人歩き始めるほどのものであったか……と、恥ずかしながら今頃感心させられた次第です。

 そしてその柔軟さは、梁山泊に生まれた第二世代において花開いていくこととなります。兀朮と秦檜が、それぞれの立場から中国統一という壮大な夢を見る中、彼ら若い世代は中国という枠を超えて、西へ東へ南へ……自由の大地を求めて歩み出すのですから。
 それが梁山泊の、国という存在の向かう先であるかはわかりませんが、枠から飛び出した若い世代というのはやはり気持ちの良いものであります。

 そしてもう一人気持ちの良い存在となってきたのが岳飛であります。

 これまで幾多の戦いに参加し、作中でも有数の実力者でありつつも、重要な戦いにはほとんど敗北し、辛くも命を繋いできた岳飛。
 身も蓋もない言い方をすれば「しぶとい敵役」という扱いに近かった彼も、自らの名を関する本作においては、武人としてだけではなく人間として、生き生きとした若者としての素顔を見せてくれることとなります。

 特に自分の義手を作ってくれた毛定や、何よりも娘の崔蘭とのやり取りは、純粋に物語として、登場人物同士の生き生きとしたやりとりとして実に楽しい。
 まだまだ岳家軍の総帥としての――歴史に名を残す英雄・岳飛としての先行きは不明なものの、一人の人間として、この先の彼の行動が楽しみになるというものです。


 さて、大きな変貌を遂げていく梁山泊ですが、しかし変わらないもの、変われないものもあります。それは楊令の死に対する復仇の想い――間接的にせよその引き金となった兀朮への復仇であります。

 本作の終盤では、兀朮率いる金軍が実に二十万の大軍を率いて梁山泊に襲来、迎え撃つは復仇の心に燃える八万の梁山泊軍。
 果たしてこの戦いの行方は……いきなりクライマックスであります。


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岳飛伝 二 飛流の章 (集英社文庫)


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