2017.08.18

天野純希『信長嫌い』 「信長」という象徴との対峙

 最近は戦国時代を中心に次々と作品を発表している作者が、戦国時代最大の有名人ともいうべき織田信長を題材にしつつ、しかし信長本人ではなく、彼に敗れた人々を主人公に描く、極めてユニークな短編集であります。

 歴史小説で最も題材となっている戦国大名ではないかと思われる織田信長。言い換えれば信長はそれだけ手垢の付いた題材ということになりますが――しかし、本書はその信長を遠景におくことにより、彼に振り回され、歴史に埋没していった人々の姿を、時にシニカルに、時にユーモラスに描き出します。。

 そんな本書は全七話構成。一話ごとに変わる主人公は、今川義元・真柄直隆・六角承禎・三好義継・佐久間信栄・百地丹波・織田秀信――いやはや、今川義元(一部の人にとっては百地丹波も)を除けば、失礼ながらマイナー武将揃いであります。
 いや、その義元も、後世の人々に芳しからざるイメージを持たれていることは言うまでもありません。余裕ぶって油断をした挙げ句、信長に首を取られた公家武将――などと。

 しかし本書はそんな義元の、いやその他六人の武将――信長に苦しめられ、信長に囚われ、信長に敗れた武将たちそれぞれにも、考えてみれば当然のことながら、望みが、夢が、そして人生があったことを、丹念に描き出します。

 例えば第一話「義元の呪縛」で描かれるのは、一度は仏門に入ったものの、兄弟子である太原雪斎に導かれるままに還俗し、今川家の当主として京を目指す義元の姿であります。
 雪斎亡き後もその教えのままに京を目指す義元。その前に現れた、あたかも雪斎に教えを受けたかのような戦いぶりを見せる信長に妬心を抱いたことから、彼の運命の歯車が狂っていく様が描かれるのであります。

 そしてその他の物語においても――
 朝倉家に迫る信長の脅威に挑もうとする真柄直隆が、その武辺者としての偏屈さから家中で浮き上がっていく姿を描く第二話「直隆の武辺」。
 名門の自負だけを胸に、全く及ばぬ信長に対し(時にほとんどギャグのような姿で)挑み続ける六角承禎の妄執が描き出される第三話「承禎の妄執」。
 将軍弑逆などの汚名を背負いながらも、三好家の当主としてしぶとく立ち回ってきた義継が、最後の最後に自らの矜持に気付く第四話「義継の矜持」。
 織田家の宿老・佐久間信盛を父に持ちながらも戦に馴染めぬ信秀が、茶の湯に傾倒していくも、意外な形で自らの誤算に気付かされる第五話「信栄の誤算」。
 伊賀を滅ぼされるのを止められなかった悔恨から執拗に信長暗殺を狙う百地丹波が、ついに本能寺で信長と対峙する第六話「丹波の悔恨」。
 祖父・信長と瓜二つの容貌を持ち、祖父に強い憧憬を抱く織田秀信(三法師)が、織田宗家の栄光を取り戻すため関ヶ原に臨む第七話「秀信の憧憬」。

 いずれも信長なかりせばまた違った人生を歩んでいたであろう者たち、自らを魔王と称するような男を前にあまりに凡人であった者たちの姿が、ここにはあります。


 さて、これらの物語の中心に屹立するのが信長ですが、しかしその人物像自体は、実はさほど斬新なものではなく、従来の信長像を敷衍したものという印象もあります。
 しかしそれこそが、本作が真に描こうとするものを導き出す仕掛けであるように、私には感じられます。

 本書における信長を見ていると、こう感じられるのです。信長という個人であると同時に、主人公の前に立ち塞がる戦国という時代の混沌を、恐怖を、理不尽を象徴する存在――それこそ「時代」あるいは「天下」そのものを擬人化したような存在ではなかったか、と。
 だからこそ本書の信長はしばしば主人公たちが呆れるほどの強運を以て窮地を切り抜け、圧倒的な力によって戦国に君臨していたのではなかったのでしょうか。

 だとすれば、本書で描かれるのは、信長一個人(だけ)ではなく、戦国時代そのものと対峙した末に、苦しめられ、囚われ、敗れた人間たちの姿なのでしょう。
 そしてそんな彼らの姿は、この時代この舞台でしかあり得ないものでありながらも、だからこそどこか普遍的な共感を以て我々の胸に響くのではないか――と。

 もちろんそれは牽強付会に過ぎるかもしれません。
 しかし少なくとも、本書で描かれた七人が、それぞれの物語の結末において、それぞれ自分自身の生きる道を見出す姿は、我々に対しても、ある種の希望を与えてくれることは間違いないでしょう。


『信長嫌い』(天野純希 新潮社) Amazon
信長嫌い

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2017.08.14

山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記 「伊庭八郎征西日記」を読む』 泰平と動乱の境目に立っていた青年の姿

 幕末に勇名を馳せた剣客・伊庭八郎の京都行きの日記全文を書き下し文で収録し、解説を付した、タイトルにも負けないユニークな新書であります。その内容そのものもさることながら、『新選組!』などの時代考証で知られる著者による詳細な解説が、面白さや興趣を幾倍にも増してくれる一冊です。

 最近では岡田屋鉄蔵『MUJIN 無尽』などでも知られる「伊庭の小天狗」こと伊庭八郎。その彼の日記に、グルメなどという言葉を付すとは――と、本書の題名だけを見て憤慨される方もいるかもしれません。
 が、実はこの題名は正鵠を射たもの。実はこの「征西日記」、勇ましい題名とは裏腹の内容で、一部で有名な日記なのです。

 この日記は、元治元年(1864年)に時の将軍家茂が上洛した際、その一行に随行した八郎が、その年の1月から6月まで163日間分を記したもの。
 この家茂上洛は、基本的に無事に終わったイベント。それゆえこの日記に記されているのも、八郎ら随行の侍たちの勤務ぶりと、毎日の食事や、非番の時に出かけた場所など、ある意味「普通」の内容にすぎません。

 ……が、それが実に面白い。(上洛という特殊事態とはいえ)ここに記されているのは、この当時の幕臣の日常的な勤務や生活の状況であり、それが垣間見られるだけでも、歴史好きには相当興味深いものです。

 しかしそれにも増して面白いのは、それ以外の部分であります。
 もちろん八郎らしく(?)、勤務の傍ら、毎日のように剣術の稽古に参加していたことも記されているのですが、この日記で圧倒的に目に付くのは、彼がうまいものを食べ、暇さえあれば観光地に出かける姿なのですから。

 好物の鰻やお汁粉に舌鼓を打ち(八郎は甘いもの好きでもあったのが窺われるのがまた楽しい)、お馴染みの観光地を巡り――ここで描かれるのは、後の剣士としての活躍とは裏腹の、我々とほとんど全く変わらない、等身大の人間像。そしてそれがまた、実に微笑ましく、魅力的に観じられるのです。


 そして、そんな等身大の八郎の日記を楽しむのを助け、そしてその楽しさを大いに増しているのが、著者による解説であります。

 日記というものは――この八郎の日記に限らず――その人物の日常を記すもの。それはその人物にとっては当たり前のことであり、特別なことでもなければ、内容にわざわざ説明が付すようなものではありません。
 しかし、彼にとって当たり前でも、記されているのは約150年も前の出来事。さらに八郎の周囲の人間関係なども、我々がその内容を知る由もありません。

 その当たり前だけにスルーされていることの一つ一つを、本書は拾い上げ、解説してみせるのです。日記に登場する言葉は何を指しているのか。姓のみ、名のみ登場する人物は何者なのか……
 時に別の記録と照合しつつ、丹念に解説することで、我々はいささかの違和感なく、まるで昨日記されたもののように八郎の日記を、彼の生活を楽しむことができるのです。

 言葉にすれば当たり前のようでいて、これがどれだけ難しいことか……


 それにしても八郎が戊辰戦争に参加し、その命を散らしたのはこのわずか5年後。ここに記された日常の姿と、5年後の非常の姿と、どちらが本当の彼の姿だったのか……本書を読んでみれば、つくづく考えさせられます。
 あるいはこの日記に描かれているのは、泰平の江戸時代と、動乱の幕末の境目に立っていた八郎の、一人の青年武士の姿と言うべきかもしれません。

 そしてそれを象徴するように感じられるのが、日記の終盤に記された、ある出来事であります。

 江戸に帰還途中の八郎のもとに飛び込んできた報せ――それは、幕末ファンであれば知らぬものとてない、ある超有名な事件の発生を告げるものであります。
 それまで「幕末」らしさとはほとんど無縁な、平和な日常を記したこの日記。そこに唐突にこの事件の報が飛び込み、そして八郎をも巻き込んでいく様は、まさしく「事実は小説より奇なり」と言うほかありません。

 が、この事件が彼にとってはほとんどニアミス状態で終わるのが、また「らしい」ところでなのですが……

 しかしここは、この日記があくまでも泰平を楽しむ伊庭八郎の姿を描いて終わってくれることに、感謝すべきなのかもしれません。
 本書の中の伊庭八郎は、いつまでも平穏な日常を楽しむ、一人の青年としての姿を留めているのですから。


『幕末武士の京都グルメ日記 「伊庭八郎征西日記」を読む』(山村竜也 幻冬舎新書) Amazon
幕末武士の京都グルメ日記 「伊庭八郎征西日記」を読む (幻冬舎新書)

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2017.08.10

入門者向け時代伝奇小説百選 鎌倉-室町

 初心者向け時代伝奇小説、今回は日本の中世である鎌倉・室町時代。特に室町は最近人気だけに要チェックです。
56.『幻の神器 藤原定家謎合秘帖』(篠綾子)
57.『彷徨える帝』(安部龍太郎)
58.『南都あやかし帖 君よ知るや、ファールスの地』(仲町六絵)
59.『妖怪』(司馬遼太郎)
60.『ぬばたま一休』(朝松健)

56.『幻の神器 藤原定家謎合秘帖』(篠綾子) 【ミステリ】 Amazon
 鎌倉時代の京を舞台に、「新古今和歌集」の歌人・藤原定家と、藤原頼長の孫・長覚が古今伝授の謎に挑む時代ミステリであります。
 古今伝授は「古今和歌集」の解釈に纏わる秘伝ですが、本作で描かれるのは、その中に隠された天下を動かす大秘事。父から古今伝授を受けるための三つの御題を出された定家がその謎に挑み、そこに様々な陰謀が絡むことになるのですが……
 ここで定家はむしろワトソン役で、美貌で頭脳明晰、しかし毒舌の長覚がホームズ役なのが面白い。時に極めて重い物語の中で、二人のやり取りは一服の清涼剤ともなっています。

 政の中心が鎌倉に移ったことで見落とされがちな、この時代の京の政争を背景とするという着眼点も見事な作品であります。

(その他おすすめ)
『華やかなる弔歌 藤原定家謎合秘帖』(篠綾子) Amazon
『月蝕 在原業平歌解き譚』(篠綾子) Amazon


57.『彷徨える帝』(安部龍太郎) Amazon
 南北朝時代の終結後、天皇位が北朝方に独占されることに反発して吉野などに潜伏した南朝の遺臣――いわゆる後南朝は、時代伝奇ものにしばしば登場する存在です。
 本作はその後南朝方と幕府方が、幕府を崩壊させるほどの呪力を持つという三つの能面を求めて暗闘を繰り広げる物語であります。

 この能面が、真言立川流との関係でも知られる後醍醐天皇ゆかりの品というのもグッと来ますが、舞台が将軍義教の時代というのも実に面白い。
 ある意味極めて現実的な存在たる義教と、伝奇的な存在の後醍醐天皇を絡めることで、本作は剣戟あり、謎解きありの伝奇活劇としての面白さに加え、一種の国家論、天皇論にまで踏み込んだ骨太の物語として成立しているのです。

(その他おすすめ)
『妖櫻記』(皆川博子) Amazon
『吉野太平記』(武内涼) Amazon


58.『南都あやかし帖 君よ知るや、ファールスの地』(仲町六絵) 【怪奇・妖怪】 Amazon
 混沌・殺伐・荒廃という恐ろしい印象の強い室町時代。本作は、それとは一風異なる室町時代の姿を、妖術師と使用人のカップルを主人公に描く物語です。

 南都(奈良)で金貸しを営む青年・楠葉西忍こと天竺ムスル。その名が示すように異国人の血を引く彼には、妖術師としての顔がありました。そのムスルに、借金のカタとして仕えることになった少女・葉月は、風変わりな彼に振り回されて……

 「主人と使用人」もの――有能ながらも風変わりな主人と、彼に振り回されながらも惹かれていく使用人の少女というスタイルを踏まえた本作。
 それだけでなく、「墓所の法理」など、この時代ならではの要素を巧みに絡めて展開する、極めてユニークにして微笑ましくも楽しい作品であります。


59.『妖怪』(司馬遼太郎) Amazon
 室町時代の混沌の極みであり、そして続く戦国時代の扉を開いた応仁の乱。最近一躍脚光を浴びたその乱の前夜とも言うべき時代を描く作品です。

 熊野から京に出てきた足利義教の落胤を自称する青年・源四郎。そこで彼は、八代将軍義政を巡る正室・日野富子と側室・今参りの局の対立に巻き込まれることになります。それぞれ幻術師を味方につけた二人の争いの中で翻弄される源四郎の運命は……

 どこかユーモラスな筆致で、源四郎の運命の変転と、奇妙な幻術師たちの暗躍を描く本作。しかしそこから浮かび上がるのは、この時代の騒然とした空気そのもの。「妖怪」のように掴みどころのない運命に流されていく人々の姿が印象に残る、何とも不思議な感触の物語であります。


60.『ぬばたま一休』(朝松健) 【怪奇・妖怪】 Amazon
 最近にわかに脚光を浴びている室町時代ですが、この20年ほど、伝奇という切り口で室町を描いてきたのが朝松健であり、その作品の多くで活躍するのが、一休宗純であります。

 とんち坊主として知られてきた一休。しかし作者は彼を、優れた禅僧にして明式杖術の達人、そして諧謔味と反骨精神に富んだ人物として、その生涯を通じて様々な姿で描き出します。

 悍ましい妖怪、妖術師の陰謀、奇怪な事件――室町の闇が凝ったようなモノたちに対するヒーローとして活躍してきた一休。
 その冒険は長編短編多岐に渡りますが、シリーズタイトルを冠した本書は、バラエティに富んだその作品世界の入門編にふさわしい短編集。室町の闇を集めた宝石箱のような一冊であります。

(その他おすすめ)
『一休破軍行』(朝松健) Amazon
『金閣寺の首』(朝松健) Amazon



今回紹介した本
藤原定家●謎合秘帖 幻の神器 (角川文庫)彷徨える帝〈上〉 (角川文庫)南都あやかし帖 ~君よ知るや、ファールスの地~ (メディアワークス文庫)新装版 妖怪(上) (講談社文庫)完本・ぬばたま一休


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 『幻の神器 藤原定家謎合秘帖』(その一) 定家、古今伝授に挑む
 『幻の神器 藤原定家謎合秘帖』(その二) もう一つの政の世界の闇
 仲町六絵『南都あやかし帖 君よ知るや、ファールスの地』 室町の混沌と豊穣を行く青年妖術師
 「ぬばたま一休」 100冊の成果、室町伝奇の精華

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2017.08.07

辻真先『あじあ号、吼えろ!』 人々の怒りの叫びに込められたもの

 アニメ界のレジェンドにして小説家としても活躍を続け、そして大の鉄道マニアである作者が、ソ連軍の侵攻の始まった終戦直前の満州を舞台に、南満州鉄道の伝説の超特急・あじあ号で必死の逃避行を試みる人々の姿を描いた、鉄道冒険小説の白眉であります。

 あじあ号とは、戦前の日本の満州経営の中心となった南満州鉄道、通称満鉄のシンボルとも言うべき存在――大連から哈爾浜までの千キロ弱を12時間余りで走破したという超特急であります。
 その無骨かつどこか未来的な印象すらある機関車の独特の流線型のフォルムは、鉄道には明るくない私でも知っているほどですが――本作はそのあじあ号と、そこに乗り合わせた人々が繰り広げる危機また危機の大冒険行を描いた物語なのです。

 日本軍の劣勢が囁かれる中、国策映画撮影のために満州に渡った売れっ子俳優の神住。哈爾浜で彼を待っていたのは、二年前に引退したものの、今回の撮影のために特別に復活することとなったあじあ号でした。
 神住と彼の付き人のほか、そのあじあ号に乗ることになったのは、神住に強引についてきた高級料亭の芸者、甘粕正彦の愛人だという満映女優とその付き人、銃の名手の青年新聞記者、満鉄の生き字引の機関士に、元マタギの運転士。さらに豪快な関東軍の脱走兵もどさくさで加わるのですが……

 しかしそこに飛び込んできたのは、ソ連軍の侵攻開始の報。急遽あじあ号で哈爾浜から脱出した一行ですが、しかしあじあ号の運行を指示する関東軍は幾度も不可解な動きを見せます。
 そして途中、厳戒態勢の基地からあじあ号に積み込まれた謎の積み荷。積み荷の正体を知るらしい軍医と少年兵、さらにあの川島芳子までも乗り込んだあじあ号は、一路大連を目指すのですが――しかしその間も幾度となくロシア軍や中国ゲリラが襲いかかります。

 行く先々に現れるゲリラに情報を流しているのは誰なのか。関東軍の不可解な動きの理由は、そして彼らがひた隠す積み荷の正体とは。何よりも、超特急に命を賭けて逃避行を続ける12人を待つ運命は……


 作者が『駅馬車』を意識したという本作。なるほど、それぞれに事情を抱えた人々が一つ乗り物に乗り合わせ、そこでドラマが展開していくというスタイルは、共通するものがあります。

 しかし本作が『駅馬車』と決定的に異なるのは、言うまでもなくその舞台背景――太平洋戦争終結直前、ソ連軍の参戦により大陸での日本の敗勢が決定的となった、まさにその時という設定であります。
 単にある場所からある場所に移動するだけでなく、座していればほぼ確実に死かそれに等しい運命が待つ状況下。そこからの必死の逃避行――それが本作に、これ以上ないほどの緊迫感を与えているのです。

 そして何よりも、必ずしも軍人だけではない――いやむしろ民間人が大半というキャラクター配置は、この状況を生み出した戦争に対するキャラクターたちの立ち位置に、行動に、大きな影響を及ぼすことになります。

 そしてそれはある意味必然的に、戦争という巨大な理不尽、いやそれを自らの意志でもたらすものたちへの巨大な怒りを込めて描かれます。
 しかし決してお説教臭くも、イデオロギー的でもなく、ただ、必死の逃走劇という極限状態に追い込まれた人々の怒りの叫びという形でもって……


 もちろん本作は、ジャンルで言えば、あくまでも――それも、如何にも作者らしいサービス精神満点の、ミステリ味すら巧みに織り込まれた――戦争冒険小説であります。
 特に、冒頭から結末に至るまで、物語に登場する要素の一つたりとて無駄のない構成、そしてそれが生み出す見せ場の数々には、ただただ興奮させられるほかありません。

 それでもなお、興奮と痛快さの奥に、鋭い痛みと深い苦みが残るのは、この「怒り」の力によるものであることは、間違いないでしょう。

 血沸き肉躍るエンターテイメントでありつつ、同時に戦争とそこに群がる人々の愚かさ、醜さを描く。言葉にすればよくあるようで、しかしとてつもなく難しいそれを成し遂げてみせた――それも失われた超特急への愛情をたっぷりと効かせた上で――超一級の物語であります。


 それにしても、ヒロインの名前の由来はやはり……


『あじあ号、吼えろ!』(辻真先 徳間文庫) Amazon
あじあ号、吼えろ! (徳間文庫)


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2017.08.05

輪渡颯介『溝猫長屋 優しき悪霊』 犠牲者の、死んだ後のホワイダニット!?

 時代怪談ミステリの第一人者、輪渡颯介の新シリーズ、早くも第二弾の登場です。「幽霊がわかる」ようになってしまう長屋の祠にお参りした四人の悪ガキたちの行く先々に現れる幽霊の男。現れるたびにその男が告げる人間の名前に込められた意味とは……

 やたらとたむろしている猫が溝に入り込んでいることから「溝猫長屋」の異名を持つ裏長屋。ある一点を除けばごく普通のこの長屋に住む忠次、銀太、新七、留吉の四人が、しきたりに従って長屋の祠に詣でたのがすべての物語の始まることとなります。
 実はかつて長屋で非業の死を遂げた少女を祀るこの祠は、詣でれば幽霊がわかるようになってしまうという曰く付き。しかもそれは、「嗅覚」「聴覚」「視覚」の形で、その時によって別々の子供に訪れるのです。

 かくて、おかしな形で幽霊と関わり合うこととなった四人は、それがきっかけでとある事件を解決することになり、まずはめでたしだったのですが――彼らがその後おとなしくしているはずもありません。

 寺子屋に建て替えの話が出たのをきっかけに、その間の仮移転先になる仏具屋・丸亀屋の空き店を訪れ、そこでかくれんぼを始める四人。しかしその最中、忠次は目の前でみるみるうちに腐っていく男の幽霊に遭遇し、一方で留吉は、幽霊が「おとじろう」と告げるのを耳にするのでした。

 そしてその直後に店の裏手から発見されたのは、その幽霊として現れた男・儀助の死体。丸亀屋の娘の婿になるはずだった彼は、半年前に行方不明になっていたのです。
 そして次の婿候補の名が「乙次郎」だったこと、そして乙次郎も行方不明となったことを知った子供たちは……


 これまで(本来であれば)恐ろしい幽霊騒動を、たっぷりのユーモアと、ひねりの効いたミステリ味で描いてきた作者。もちろん本作においても、その味わいは健在です。

 そんな中でも何よりも特徴的なのは、幽霊が現れるたびに、子供たちが一人一人、別々の三つの感覚で幽霊を感じ取ってしまう点であることは間違いないでしょう。
 一度に全て感じてしまうのではなく、ある時は幽霊の姿を、ある時は幽霊の声を、またある時は幽霊(というか死体)の臭いを……子供たちがバラバラに感じ取ることで、恐ろしい状況が、何やらややこしい状況に一変してしまうのが楽しい。何しろ幽霊までも困惑してしまうのですから……

 しかもこの遭遇がローテーション性(一度ある感覚に当たれば、同じ感覚はそれ以降回ってこない)だったり、今回も子どもたちの中で銀太だけ、毎回どの感覚にも当たらない(幽霊を感じられない)仲間外れ状態だったりというお約束が今回も健在なのが、実に愉快なのです。


 しかし本作の面白さはそれにとどまりません。本作の最大の魅力は、幾度も子供たちの前に現れる儀助の幽霊の行動――現れる度に別々の人間の名前を口にする、その行動の謎にあるのです。

 幽霊が誰かの名前を口にする――怪談話ではしばしば見られるこのシチュエーションですが、その内容は文字通りダイイングメッセージ、すなわち自分を殺した犯人の名を告げるのが一つの典型でしょう。
 しかしそうだとしたら、毎回違う人物の名前が出るのに平仄が合わない。実は儀助が告げる名前には、ある共通点があり、警告としての意味があるのですが――しかしそうだとすれば、なぜそんな回りくどい行動を取るのか? 自分を殺した下手人の名を告げれば、一度に解決するはずなのに……

 ミステリには、ある人物の行動の理由を解き明かすホワイダニットというスタイルがあります。ほとんどの場合、それは犯人の反抗理由なのですが――本作の場合、何と犠牲者の、それも犠牲になった後の行動のホワイダニットだったとは。
 これは間違いなく、怪談ミステリというスタイルでなければ描けない内容であります。

 正直なところ、犯人の正体自体は、容易に予想がつくところではあります。しかしこの変化球のホワイダニットにより、物語に意外性と、新たな興趣が生まれているのは間違いありません。


 そして今回もまた、厳しくも温かく子供たちを見守る大人たちが、事件を丸く収めるために奔走するのですが――怖っ! この人たちの方がよっぽど怖い……
 四人の子どもたちを引きずり回す自称箱入り娘のお紺も含め、幽霊や悪人とは別のベクトルでおっかない大人たちの「活躍」にも肝を冷やすことになる、何とも最後の最後までユニークな作品です。


『優しき悪霊 溝猫長屋 祠之怪』(輪渡颯介 講談社) Amazon
優しき悪霊 溝猫長屋 祠之怪


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2017.08.01

牧秀彦『月華の神剣 壬生狼慕情』 神剣が映し出す幕末剣士伝

 剣豪ヒーローが活躍する物語を得意とする作者が手がける新シリーズは、「常勝の御太刀」と呼ばれる神剣を巡る幕末もの。神剣が原因で父を殺され、京に向かうことになった青年・祝井信吾が、新選組の面々とともに歴史のうねりに巻き込まれることになります。

 神官の家に生まれながらも、修行そっちのけで剣術三昧の日々を送っていた信吾。時はペリーの黒船が来航してから十年、江戸と京の間で不穏な空気が漂う中、彼の父が守る神社には、何やら曰くありげな武士たちが次々と訪れるのですが……

 そんなある日、神社を訪れた武士の一団によって信吾の父が無残にも斬殺されるという事件が起きます。犯人の狙いは、神社で守られてきた大太刀の強奪――信吾は今際の際の父から、隠されていた大太刀を守り、しかるべき人物に託すことを命じられるのでした。

 誰に託すあてもなく江戸に向かい、行き倒れかかった信吾を救った若き剣士たちの一団。彼ら試衛館の剣士たちが、浪士組として京に向かうのに同行する道を選んだことで、信吾は思わぬ戦いに巻き込まれることに……


 タイトルに掲げられている「神剣」とは、「常勝の御太刀」と呼ばれる伝説の刀。無銘のその三尺の太刀は、古くは源義経に、その後は北条時宗、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康と、とんでもない面々に授けられたという太刀であります。
 それを手にした者は、あらゆる戦いに勝ち、天下を取ることができるという伝説の太刀は、いつしか田舎神社に納められていたのですが――この激動の幕末に再び世に出ることになって、というのが本作の基本設定であります。

 ……と書けば、それこそ作者がスタッフに加わっていたアニメ『幕末機関説いろはにほへと』のような伝奇活劇のようですが、その辺りの要素は、実のところかなり抑え目。
 むしろ本作は、神剣伝説を背景に、そして信吾を狂言回しに、幕末の複雑怪奇な政治の力学と、その渦中に巻き込まれた剣士たちの姿を描くのが目的ではないかと――そんな印象を受けます。


 そしてそれこで最初に描かれるのが、近藤・土方・沖田……そして芹沢ら、新選組の面々なのであります。

 清河八郎(本作においては信吾と旧知の人物であり、そして神剣を狙う奸物として描かれるのですが)の献策により結成された浪士隊に加わり、武士として一旗上げるために京に上った近藤たち。
 縁あって彼らと行動を共にすることとなった信吾は、やがて彼らが近藤派と芹沢派に分かれ、ついには刀を以て対峙するまさにその真ん中に立つこととなるのです。

 ここで描かれる黎明期の新選組の面々は、ある意味鉄板の人物造形なのですが、それだけに親しみが持てるのも事実。そして悪役として描かれることが多い芹沢も、単純粗暴なわけではなく、様々な屈託を抱えた人物として描かれるのも好感が持てます。

 そして芹沢はともかく、近藤たちは信吾と負けず劣らずピュアな存在として描かれるのですが――それが幕末という混沌、そしてより直接的には神剣という存在を前にやがて変わっていくのは、ある意味それが世の必然とはいえ、何とも苦く物悲しいものをこちらの胸に残します。


 と、異色の幕末剣士列伝としてユニークな本作ですが、第1弾である本作の時点では、まだ少々薄味という印象は否めません。
 それは信吾のキャラクターが、良くも悪くもまだニュートラルな点によることが大きいかと思いますが(その他、名のある人物の去就がさらりと流されてしまうのも勿体ない)、これから物語の中で彼が成長していくことによって、そこは変わっていくのでしょうか。

 いきなり新選組という有名人集団との出会いと別れを描いたその次に、果たして誰が来るのか――その点も気になるところではあります。


『月華の神剣 壬生狼慕情』(牧秀彦 角川文庫) Amazon
月華の神剣 壬生狼慕情 (角川文庫)

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2017.07.29

『週刊読書人』で『日雇い浪人生活録』(上田秀人 ハルキ文庫)を紹介しました

 最近のお仕事の紹介であります。『週刊読書人』の7月28日号で、上田秀人『日雇い浪人生活録』(ハルキ文庫)の紹介を担当させていただきました。

 今回執筆の機会をいただいたのは、『週刊読書人』の「わが社のロングセラー」という特集。出版各社がタイトルの通り一社一タイトルずつ自社のロングセラータイトルを挙げ、それを作家自身あるいは評論家が解説するという毎年の恒例企画であります。

 十数社分が掲載されるということで、一タイトルあたりの文章量は少ない(千文字強)のですが、しかしロングセラーというだけあって、紹介される作品は名著名作揃い、さらに執筆陣も――と、読み応え十分の企画であります。

 そんな中に私が出ていくのも恐縮ですが、これまでなかなか書かせていただく機会のなかった(あってもワンオブゼム的な扱いだった)上田作品の解説、それも愛読しているシリーズということで、気合を入れて書かせていただきました。

 この『日雇い浪人生活録』シリーズ、タイトル通り日雇いで暮らしてきた親の代からの浪人を主人公とした物語――というと人情とペーソスに満ちた作品のように見えますが、上田作品がそんなありきたりの展開となるわけもありません。
 思わぬことから若き日の田沼意次に目をつけられた彼は、幕府の行方を左右するような暗闘に巻き込まれて――という作者の新機軸であります。

 そんな本シリーズの最大の特徴は、もちろん主人公が「浪人」である点。浪人というのは文庫書き下ろし時代小説では定番の主人公の職業(?)ですが、しかし上田作品では極めて珍しい存在です。
 そして単に珍しいだけでなく、本シリーズの構造においては、主人公が浪人であることに確かな意味があって――というような(これまでもこのブログで縷縷述べてき)ことを書かせていただきましたので、ご一読いただければ幸いです。

 なお、7月28日号はこの企画のみならず、「真夏の文庫大特集」と銘打って、「森まゆみさんが選んだ文庫23点」「読者へのメッセージ」といった企画で様々な文庫を紹介。
 特に後者は、稲葉稔、鈴木英治、千野隆司、葉室麟といった時代作家の方々による自作紹介が掲載されており、時代小説ファンも必見であります。


 ちなみに、書店ではちょっと見つけにくい『週刊読書人』ですが、電子版も発売されているほか、コンビニの多機能コピー機で購入可能となっています(時代は進んでいる! と大いに感心)。

 ちなみにこの7月28日号、前半と後半に分かれて販売されているのにご注意下さい。
 私も最初気付かずに前半だけ買ってしまい、「載ってない!」と驚いたりしましたので……(後半に載ってました)



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 上田秀人『日雇い浪人生活録 3 金の策謀』 「継承」の対極にある存在

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2017.07.26

物集高音『大東京三十五区 夭都七事件』 古今の帝都を騒がす怪事件ふたたび

 昭和初期を舞台に、お調子者の書生が持ち込む奇っ怪な事件を、居ながらにして解決してしまう「縁側探偵」のご隠居の名推理を描く連作短編シリーズの第2弾であります。今回も、今昔の帝都を騒がす七つの奇怪な事件が描かれることに……

 時は東京都区部が三十五区となった昭和7年、早稲田大学に席を置きながら、怪しげな事件を嗅ぎつけてはそれを扇情的な記事に仕立てては小銭を稼ぐ不良書生の阿閉万、通称「ちょろ万」が本シリーズの狂言回し。
 そしてそんな彼がかき集めてくる怪事件の数々を――起きた場所はおろか、起きた時代も全く異なるものも含めて――縁側に居ながらにして解き明かしてしまうのが、彼の下宿の家主であるご隠居・玄翁先生こと間直瀬玄蕃であります。

 今日も今日とて、明治の浅草で起きた無惨かつ不可解な事件の存在を嗅ぎつけてきたちょろ万に対し、玄翁先生はこともなげにその謎を解き明かして……


 と、ここでシリーズ第1弾たる『冥都七事件』の読者であれば首を傾げることでしょう。同作のラストにおいてご隠居は何処かへ姿を消したのでは――と。
 しかし本作の第1話であっさりとご隠居は帰還。あまりにあっけらかんとした展開にはさすがに驚かされましたが、それはそれで本シリーズらしい……と言えるかもしれません。

 そして登場人物の方も、ちょろ万と玄翁先生のほか、前作にも登場した鋼鉄の女性記者・諸井レステエフ尚子に加え、もとは箱根の温泉宿の女中、今はご隠居の店子の少女・臼井はなといった新キャラが登場、シリーズものとしては順調にパワーアップしている感があります。


 さて、そんな本作で描かれるのは、前作同様、東京の各地で起きる事件の数々であります。

 明治10年の浅草で模型の富士の上に観音様が現れた直後に、見世物小屋に首無し死体が降る「死骸、天ヨリ雨ル」
 芝高輪の天神坂を騒がす、夜ごと髑髏が跳び回る怪異「坂ヲ跳ネ往クサレコウベ」
 麻布の新婚家庭で結婚祝いに送られた夫人の肖像が、日に日に醜く年老いていく「画美人、老ユルノ怪」
 若かりし日の間直瀬玄蕃の眼前で、雛人形を奪って逃走した男が日本橋の上で消える「橋ヨリ消エタル男」
 内藤新宿の閻魔堂で一人の少年が妹の眼前から姿を消し、脱衣婆に喰われたと騒ぎになる「子ヲ喰ラフ脱衣婆」
 大正11年の上野に展示された平和塔に、一夜にして奇怪な血塗れの記号が描かれる「血塗ラレシ平和ノ塔」
 駒込の青果市場に自転車で通う老農夫の後を、荒縄が執拗に追いかけては消える「追ヒ縋ル妖ノ荒縄」

 いずれもミステリというより怪談話めいたな事件ですが、それを現場に足を運ばず――それどころか、既に述べたように過去に起きた事件もあるわけで――解決してみせる縁側探偵の推理には、今回も痺れさせられます。
 そしてまた、謎が解けたと思いきや……という、良い意味の(?)後味の悪さが残るエピソードが多いのも、実に好みであります。

 そんな本作の中で個人的にベストを挙げれば、「画美人、老ユルノ怪」でしょうか。
 扱われているのが老いていく絵という、直球の絵画怪談的現象を描いた上で、考えられる解を一つ一つ潰しつつも、たった一つの手がかりから、見事に合理的な解を導いてみせるが、何とも痺れるのです。

 そしてその上で、事件の背後に人間の心の中の黒々とした部分を描き、さらに追い打ちをかけるようにゾッとする結末を用意しているのは、お見事と言うほかありません。
(実はこの作品のみ、探偵役がご隠居ではなく、ちょろ万の恩師である大学教授というのも面白い)


 こうしたミステリとしての魅力に加えて、今回もポンポンとテンポのよい擬古的な文体といい、その中で描かれる当時の風俗描写の巧みさといい、実に楽しい作品なのですが……
 一点だけ不満点を挙げれば、本作には前作にあったような、巨大な仕掛けが存在しないことでしょうか。

 もちろんそれはあくまでもおまけの仕掛けであったのかもしれませんが、人間、一度贅沢に慣れてしまうと、今度はそれがないと不満に感じてしまうのは仕方のないところでもあるでしょう。

 厳しい言い方をすれば、普通の続編になってしまった――という印象は残ってしまったところではあります。


『大東京三十五区 夭都七事件』(物集高音 祥伝社文庫) Amazon
夭都七事件―大東京三十五区 (祥伝社文庫)


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2017.07.25

芦辺拓『地底獣国の殺人』 秘境冒険小説にして本格ミステリ、そして

 本格ミステリの枠を守りつつも、書けないものはないのではないか、と言いたくなるアクロバティックな作品を次々と発表してきた芦辺拓。そのシリーズ探偵・森江春策が、なんと恐竜が徘徊する人外魔境を巡る事件――それも彼の祖父にまつわる事件に挑む、極めつきの異色作にして快作であります。

 またもや一つの難事件を解決した森江春策の前に現れた謎の老人が語る、奇怪な物語。それは戦前に彼の祖父・春之介も参加したという、ある冒険の真実でした。

 昭和11年、ライバル社に対抗せんとする新聞社の驚くべき企画――それは、飛行船により、トルコのアララト山に眠ると言われるノアの方舟を探索するという冒険でした。
 その企画への参加することとなったのは、高天原アルメニア説を唱える異端の老学者・鷲尾とその美人助手・浅桐、飛行船を操る日本軍人コンビ、地質学者、通訳、トルコ軍人に謎の外国人、そして春之介を含む三人の新聞記者という面々であります。

 出発前から不穏な空気の漂う中、旅立った一行がアララト山上空で見たものは、記録に残っていない巨大な亀裂。そして原因不明の機器の異常により亀裂の中に不時着した一行を待っていたのは、鬱蒼たる密林と、そこにうごめく恐竜たち――そう、そこは時に忘れられた世界だったのであります。

 何とか脱出の機会を探る中、不審な動きを見せる鷲尾を追った折竹記者(有名な探検家とは無関係)と浅桐は、祭祀場のような遺跡から、彼が何かを掘り出すのを目撃。しかしその直後に彼らは恐竜の襲撃を受け、折竹たちは深手を負った鷲尾を連れ、原始の森林をさまようことになります。
 そして必死の思いで飛行船に帰還した彼らを待っていたのは、何者かに破壊され、もぬけの空となった飛行船。さらに折竹の前には、あまりに意外な人物が……


 既に現在ではほとんど滅んだジャンルである秘境冒険小説。『失われた世界』『地底旅行』『ソロモン王の宝窟』、そして『人外魔境』に『地底獣国』――地球上から秘境と呼ばれる地と、それを信じる人が消えると共に失われたその作品世界を、本作は見事に復活させています。
 奇想天外な秘境と、そこに潜む恐竜などの怪生物、そして原住民たちと秘められた宝物――そんな胸躍る世界を、本作は戦前というギリギリの虚実の境目の次代を舞台に、丹念に、巧みに描き出しているのです。

 ――いや、確かに面白そうではあるけれども、しかし本作はどう考えてもミステリではないのでは、と思われるかもしれません。それも尤もですが、しかし驚くなかれ、そのような世界を描つつも、本作はあくまでも本格ミステリとして成立しているのであります。
 外界から隔絶された秘境での冒険の中、一人、また一人と命を落としていく探検隊のメンバー。その構図は、有名なミステリのスタイルを思い起こさせはしないでしょうか。「雪の山荘」「嵐の孤島」ものとでも言うべきスタイルを……

 そう、本作はこともあろうに人外魔境を一つの密室に見立てた連続殺人もの。しかもその謎を解き明かすのは、その冒険(事件)から半世紀以上を経た現代に、謎の老人から冒険の一部始終を聞かされた森江春策――すなわち本作は、同時に一種の安楽椅子探偵ものでもあるのです。
 なんたる奇想!ミステリ作家多しといえども、このような作品を生み出すことができるのは、作者しかいない、と言っても過言ではないでしょう。

 物語を構成する要素が一つとして無駄になることなく意外な形で結びつき、やがて巨大な謎とその答えを描き出す。さらにとてつもない仕掛けを用意した上で……
 ここには、本格ミステリというジャンルの魅力の精髄があると言えます。


 そしてまた、本作は同時に、一種の歴史もの・時代ものとして読むことも可能です。それも実に優れたものとして。

 本作で描かれる世界は、確かに現実世界からは隔絶したような人外魔境であります。
 しかしその一方で、そこに向かう人々、そして彼らが引き起こし彼らが巻き込まれる出来事は、皆この時代の、この世界なればこそ成立し得るものなのであります。
(そして発表されてから20年経った本作に描かれる世界は、奇妙に今この時と重なるものがあるようにも感じられます)

 秘境冒険小説と本格ミステリといういわば二重の虚構の世界を描きつつも、その根底にあるもの、そしてそこから浮かび上がるのは、紛れもない我々の現実である……
 本作の真に優れた点はそこにあるのではないかとも感じた次第です。


『地底獣国の殺人』(芦辺拓 講談社文庫) Amazon
地底獣国(ロスト・ワールド)の殺人 (講談社文庫)

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2017.07.22

上田秀人『御広敷用人大奥記録 12 覚悟の紅』 物語の結末を飾る二人の女性の姿

 吉宗の大奥改革を発端に始まった激しい暗闘を描く水城聡四郎シリーズ第2シーズンとも言うべき『御広敷用人大奥記録』も、この第12巻でついに完結。愛する竹姫に、そして嫡男の長福丸に次々と魔の手を伸ばした天英院と直接対決に及んだ吉宗と聡四郎を待つ結末とは?

 以前は大奥の五菜(雑用係の男)に竹姫を襲わせ、そして今度は長福丸に毒を盛った天英院についに怒りを爆発させ、聡四郎とともに大奥に乗り込んで、彼女の一派に一大痛撃を与えた吉宗。
 しかし吉宗と竹姫に対して深い恨みを抱いた天英院は、最後の手段として京の実家・近衛家に文を送り、さらに元御広敷伊賀者、今は裏社会の住人となった藤本に将軍暗殺を依頼。一方、吉宗は長福丸が自分の改革の犠牲となったことに深い心の傷を抱えることになって……

 と、最後まで先の読めない展開が続きますが、この物語は本作で間違いなく、それも極めて美しい形で結末を迎えることになります。そして聡四郎や吉宗以上に大きな役割を果たすのは、二人の女性である――そう申し上げても良いでしょう。

 その一人は紅――言うまでもなく聡四郎の妻であり、もうすぐ彼の子を産む、聡四郎の物語を通じてのヒロインであります。
 吉宗の養女という形で聡四郎の妻となった紅は、竹姫にとっては姉のような存在。これまでのシリーズにおいても竹姫を支えてきた紅ですが――本作において、彼女は竹姫とともに吉宗と対峙することになります。

 上で述べたように、長福丸が自分の改革の巻き添えを食う形で毒を盛られ、不具の身となってしまった吉宗。改革のためであれば何をも恐れず、剛毅をもって鳴らす彼にとっても、さすがにこの事態は、深刻なダメージをもたらすことになります。

 そんな吉宗を見るに見かねた聡四郎から助けを求められた竹姫は、さらに紅の力を借りるのですが――なんと、ここにきてあのフレーズが、第1シーズンとも言うべき『勘定吟味役異聞』で、結婚前の彼女が幾度となく聡四郎にぶつけたあのフレーズが、こともあろうにその場で爆発!
 いやはや、最近はずいぶんおとなしくなったかと思いきや、まさかシリーズのラストにきての大爆発に、本作のタイトル『覚悟の紅』の「紅」とは彼女のことであったかとすら思ってしまったのですが……

 そんなつまらない冗談を一瞬でも思ったことを反省するほかない展開が、ラストには待っています。そしてそれは、もう一人の女性――本シリーズのヒロインともいうべき竹姫を通じて描かれることになります。

 これはいささか踏み込んだ表現になってしまうかもしれませんが、本作において、吉宗と竹姫の恋は、史実通りの結末を迎えることとなります。
 それが如何なる経緯を経てのものであるか、それはもちろんここで触れるようなことはいたしませんが、決して変えられない史実の壁が、ここに待っていた――そう言うことができるでしょう。

 しかし本作は同時に、その結末において、その冷厳たる壁に小さな穴を開けてみせます。そしてそこに至り、我々は初めて知ることになります。本作のタイトルである『覚悟の紅』の意味と、そこに込められた竹姫の深い想いを……


 将軍吉宗の大奥改革――大奥の勢力を二分する天英院と月光院への宣戦布告から始まった『御広敷用人大奥記録』。その物語を貫くのは、自分の理想を実現し、次代に引き継ぎたいという吉宗の強い意志であり、聡四郎はその実現のために戦い続けてきたと言えます。
 しかし、次の代へ世を引き継いでいくことは、男たちだけの力のみでできるものではありません。そこには必ず、彼らの子を産む女性たちの存在が必要なのですから。

 そしてこの物語は、大奥という女の城を舞台とする以上に、女性の存在がクローズアップされる物語となっていくことになります。吉宗に愛され、共に次代を目指す竹姫というヒロインの存在を中心に据えることで……
 だとすればその結末を彼女の姿を通じて語ることは、必然であったと言えるでしょう。

 そしてその姿はもの悲しくも、極めて美しく、そして力強いものであったと……


 これにて聡四郎の第二の戦いは幕を下ろすことになります。しかし吉宗の改革の意志は衰えることなく、いやむしろ、本作の結末をもって、より強まったと言えるでしょう。
 だとすれば、聡四郎の次なる戦いが始まる日も遠くはありません。その日を、今はひたすら楽しみに待ちたいと思います。


『御広敷用人大奥記録 12 覚悟の紅』(上田秀人 光文社文庫) Amazon
覚悟の紅: 御広敷用人 大奥記録(十二) (光文社時代小説文庫)


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