2017.04.25

劇団ヘロヘロQカムパニー『犬神家の一族』 関智一の金田一だからこそできたもの

 先週末、劇団ヘロヘロQカムパニーの『犬神家の一族』を観劇してきました。言うまでもなく横溝正史の金田一耕助もの、かつて市川崑の映画版が大ヒットした、あるいは最も有名な金田一耕助もの……その原作を見事に舞台化した作品であります。

 これまで座長の関智一を金田一耕助役として、『八つ墓村』『悪魔が来りて笛を吹く』『獄門島』と上演してきた劇団ヘロヘロQカムパニー(以下、「ヘロQ」)。残念ながら私はこれらの作品は観ていない……というよりヘロQ自体これが二度目の観劇なのですが、以前観た『魔界転生』がかなりの完成度だっただけに、期待を寄せていました。

 そしてまず結論を申し上げれば、これがかなりの完成度。決して短くはない原作を、3時間弱という上演時間の中でテンポよく消化し、過不足なく再現して見せてくれた快作であります。

 犬神佐兵衛翁の臨終の場面と、金田一のもとに依頼が届く場面を同じ舞台上で見せるという、いかにも演劇的な演出で始まる本作。
 その後のヒロイン珠世受難に代表されるような映像の投影を多用したケレン味たっぷりの演出も楽しいのですが、金田一役の関智一をはじめとする出演陣の演技もいい。

 私でも知っているようなメジャー声優の方々がメインを固めている舞台でしたが、声の演技とはまた異なる演技というものを、堪能させていただきました。
(特に三石琴乃は、登場してもしばらく気付かず驚かされました)

 その中でも関智一の金田一は、飄々とした浮き世離れした面と、明るい人懐っこさを感じさせる面がうまく同居しており、はまり役という印象。
 基本的にラストまで謎に振り回される(舞台の構造としては謎の整理役というべき)役どころながら、いるだけで不思議な安心感と好感を感じさせるのは、さすがは座長と言うべきでしょうか。


 それ以上に感心させられたのは、市川崑の映画版では省略された原作の要素の多くを、きっちりと再現している点です。
 その最たるものは、犬神家での第二の殺人のトリック(経緯)を省略せずに描いている点と、第三の殺人の犯行手段と見立ての説明でしょう。その他にも、クライマックスのある人物の逃走劇や、その人物が正体を隠していた理由なども、丹念に拾って再現しているのには、大いに好感が持てます。

 その一方で面白いのは、本作が映画版を思わせる演出を随所に取り込んでいる点でしょう。
 音楽や、特に佐清のマスクと喋りに代表されるキャラクターのビジュアルや芝居、さらにはとにかく走り回る金田一(目の前の通路を使うというのでそんな場面があったかな、と思いきや……)など、原作の展開と併存させる形で、使用しているのであります。

 原作への拘りからすると、この辺りは一見奇妙に見えるかもしれません。しかし『犬神家の一族』という物語のパブリックイメージの大半を形作っている映画版のそれに寄せることで、それしか知らない、あるいはパロディ等でしか本作を知らない方も入り込みやすい舞台を目指しているのではないか……という印象を私は受けました。
(この辺りは、『魔界転生』でも感じたところです)


 そして何よりも印象に残るのが、ラストシーンであります。本作のラストにおいては、やはり映画版を踏まえつつも、金田一と珠世の会話を通じ、物語の構造を――物語の中心となるある人物の想いを浮かび上がらせつつも、そこからの解放と未来への希望を明確に描き出すのです。

 金田一が、固陋な因習の、閉鎖的な共同体の破壊者であるというのは、しばしば言われるところではあります。

 本作はその構造を踏まえつつも、ラストシーンにおいてそれらを生み出したものの存在を浮き彫りにし、そしてそこからの解放を支える者としての金田一を描き出すことで、原作の描いていたものを、より明確に描いてみせたと言えるでしょう。
 そしてそれは、関智一の金田一だからこそできたもの……というように感じられます。


 さすがにラストの推理シーンは(事件の構造のためでもあるのですが)そこまでの快調なテンポが落ちる点、章立てながら休憩なしという点など、引っかかる部分が皆無ではないのですが――
 しかしそれを補ってあまりある舞台であった本作。これまでの作品も、そしてこれからの金田一ものも観てみたいと感じさせられた作品であります。


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2017.02.21

六本木歌舞伎『座頭市』 奮闘、海老蔵&寺島しのぶ しかし……

 この20日までEXシアター六本木で上演されていた六本木歌舞伎の『座頭市』を観ました。座頭市を演じるは市川海老蔵、二人のヒロインを演じるのは寺島しのぶ、そして脚本はリリー・フランキー、演出は三池崇史と、異色の歌舞伎であります。

 舞台は六本木温泉宿場町、時は江戸時代――それも、史実よりもずっと長く続いた(おそらくは現代に近くまで)江戸時代。
 この六本木に流れ着いた盲目の男・市は、放浪の按摩は表の姿、実は凶状持ちで莫大な賞金をかけられた侠客でありました。

 そんな市が出会ったのは、宿の女中として懸命に働く盲目の少女・おすずと、江戸随一の花魁・薄霧太夫。特に薄霧は市の危険な香りに強く惹かれるようになります。
 しかし町を牛耳る六樽組の親分・権三は、市を危険視し、六樽組の用心棒である狂剣士・風賀清志郎らに抹殺を指示。陰謀を察知した薄霧は、市を連れて町を抜けようとするのですが――


 というこの歌舞伎、物語的には上の概略がほとんど全てと、非常にシンプル。流れ者が土地を牛耳る顔役と対決、ヒロインと別れて再び旅立つ……というのは、流浪のヒーローものの定番ではありますが、相当にあっさりした内容ではあります。
 が、その分、存分に見せてくれるのは、海老蔵と寺島しのぶの演技合戦なのです。

 海老蔵の座頭市というのは、坊主頭がトレードマークの一つであるだけに、コロンブスの卵的なビジュアルですが、これがなかなかにはまっている印象。
 本作の市は、一般的な座頭市のイメージに比べれば若くまた格好良すぎるようにも見えるのですが……しかしその無頼さ・慇懃さ・無愛想さ・人懐っこさ・真摯さ・洒脱さetc.といった、相反する要素が入り混じったキャラクターは、海老蔵という役者自身のイメージとも重なって、本作ならではの座頭市像を生み出していると感じます。

 特に冒頭、なんとTシャツにスウェットという姿で現れ、本水を被りながら立ち回った後で、コンビニのビニール袋を片手にタオルで顔を拭い、袋から取り出したモンキーバナナをつまらなそうに頬張る姿は、「今の」座頭市像として、一気に心を掴まれました。
(その後、早変わりで真っ赤な衣装に着替えるのですが、これはこれで格好良い)

 そして対する寺島しのぶですが――梨園の名門に生まれながらも、女性という理由で歌舞伎役者になれなかった彼女にとって、「歌舞伎」の舞台は夢だった、と思ってもよいでしょうか。
 薄霧の情念に満ちた役どころはお得意のそれかと思いますが、しかしむしろ舞台の上でのはっちゃけぶりが凄まじく、海老蔵との濡れ場はほとんどアドリブで無茶なネタの連発ですし、後半には歌謡ショー(!)まであったりと、大暴れであります。

 二役で演じた少女・すずの方はうって変わって可愛らしい役どころですが、舞台上での二人の早変わりも楽しく、実に楽しそうに舞台上を走り回っていたのが印象に残ります。


 しかし――舞台全体として見れば、正直なところ、この二人の奮闘ぶりが全てという印象であります。

 上で述べたとおり物語としては相当に薄い本作。2時間と比較的短いためもあるかもしれませんが、その時間の多くがアドリブに割かれた印象で、二人を除けば辛うじて印象に残るのは、市川右團次演じる清志郎のみ。
 そもそも、基本的に市はただ六本木にやって来て普通に過ごしているだけなのに、一方的に薄霧や六樽組がエキサイトして彼に絡んだ末に、自滅していくのですから……

 終わらない江戸時代という舞台設定も、有効に利用されていたのは先に触れた冒頭の市の姿くらいで、「今」の物語としては突っ込み不足でありました。

 しかし何よりも驚かされたのはクライマックス。死闘の末に辛うじて清志郎を倒した市。しかしその時、周囲がにわかにかき曇り、倒されたはずの清志郎が不気味な姿で復活。そしてその背後から現れる、巨大な怪物・鵺――
 いやはや、座頭市と怪物が戦う話は初めて見ましたが、普段であれば大好物の要素も、何の伏線もなく突然出てくれば、夢でも見たかと思うほかありません。
(鵺の造形が結構良かっただけに残念)


 ラスト、市にとって美しいもの、純粋なものの象徴であるはずのすずが……という苦い結末は良かった(「厭な渡世だなァ」という台詞も納得)だけに、尚更、そこに至るまでが残念に感じられた次第です。


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2016.11.27

ことだま屋本舗EXステージ『クロボーズ』を観て(聴いて?)きました

 本日YOKOHAMA O-SITEで上演された、ことだま屋本舗EXステージ『クロボーズ』を観てきました。いわゆるモーションコミックの声の生アフレコとでも言いましょうか、舞台上のスクリーンに映し出される漫画のコマの前で、出演者が声を当てるというなかなかユニークな舞台であります。

 この舞台の原作である『クロボーズ』については以前にもこのブログで紹介いたしましたが、現代の黒人ヘビー級ボクサー・ヤーボが突如戦国時代にタイムスリップ、「弥助」と名乗って織田信長に仕えるという奇想天外な作品であります。
 現在も連載中の本作は先日単行本第1巻が刊行されましたが、今回上演されたのはその第1巻に収録された8話+その後の1話分。タイムスリップしたヤーボが信長や秀吉と出会い、そして本能寺の変で……という辺りまでとなります。

 さて、この舞台の主役はもちろん「声」ですが、これがヤーボ役をはじめとして出演者が皆はまり役、基本的には皆声優の方で、恥ずかしながら私はこの方面には暗いのですが、しかしやはりプロの力というものに素直に感心しました。
(ただ一人、望月千代女役の平田裕香は声優ではありませんが、こちらも戦隊俳優の経験ありのためか、全く違和感なし)

 出演者は基本的に特別な格好(例えば演じるキャラクターの衣装)をしているわけでもなく、舞台上でマイクの前に向かっている状態、これはまことに失礼な表現ながら、一歩間違えるとスクリーンを見るのに邪魔になりかねないのですが、これが全く気にならなくなるのは、なかなか面白いことです。

 さて、出演者の中でもやはり前面に出てくるのは弥助役の前田剛と信長役の佐藤拓也ですが、前者は漫画をスラスラと読んでいると比較的流してしまいやすい弥助の感情の振幅を丹念に拾っているのに感心であります(そして周囲と言葉が通じていない序盤と、通じるようになったそれ以降でしゃべり方を変えているというのも面白い)。
 また後者は基本的に「格好いい信長さま」というラインに忠実なのですが、作中で歌われる二つの歌をきっちりこなしていて好印象でありました。

 しかし個人的に一番印象に残ったのは、実は前田利家でありました。作中では序盤と終盤に登場して弥助に絡むキャラクターで、それほど出番は多くないのですが、しかし弥助、そして秀吉と微妙な距離を取りつつも、しかしそれぞれに好意とも興味ともつかぬものを裏に感じさせるのが実にいい。
 この辺りはもちろん原作通りではありますが、しかし声の演技がつくことで、表に見えにくいひねくれ者の人間味がくっきりと浮かび上がるのは嬉しい発見でした。

 また、弥助の妹たちと、お市の三人の娘が同じキャストなのは、ドラマ的にうまい配役で……と、色々と感心させられた舞台でした。


 ただ時間的には通しで一時間弱で、それで9話分の内容というのは相当に駆け足にも感じられたのも事実ではあります。
 とはいえ、この辺りは内容的に原作に忠実にせざるを得ない(仮に映像化された際に補われるであろう部分がない)この舞台の性質を考えれば、ある意味仕方ないと言うべきかもしれませんが――

 また、これは厳しいことを言いますが、原作でもかなり細かいコマを大きなスクリーンで映すのは書き込み的に厳しく見えるところもあり(これはもともとそういう扱いのコマなのだから仕方ないと思います)、コマのチョイスなど、そもそものスタイルにはまだ詰めるべきところもあるようにも感じます。

 しかし試みとしては非常に面白く魅力的なものであることは事実ですし、ライブだからこその熱気と吸引力があったことはまた間違いない話であります。
 ラストの盛り上がりも相当なもので、私が観たのは昼の部だったのですが、これ、夜の部に行ったら続きが観られるのでは……などと思わず考えてしまったほどです。

 漫画のメディア化には色々なやり方があるかと思いますが、このような形もあったのか、と感心させられたこの舞台。ぜひまたいずれ……と感じた次第です。



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 たみ&富沢義彦『クロボーズ』第1巻 天国から地獄へ……現代の黒人ボクサー、「弥助」になる

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2016.09.25

『エド魔女奇譚』第6回-第10回 二つの世界の間で彼女が選んだもの

 オンエアから一週間遅れの今ごろで大変恐縮ですが、NHK-FMの「青春アドベンチャー」で放送されたオリジナル時代伝奇ドラマ『エド魔女奇譚』の後半5回の紹介であります。八代将軍を巡る動きに絡んで暗躍する異国の魔女と、その秘密を知った人々との戦いの行方は……

 時は正徳三年、突然の死を遂げた尾張第四代藩主・徳川吉通が、生前、謎の異国の少女から将軍位に誘われたことを知った吉通の弟・通春とその腹心・星野藤馬、蘭学医・宮部牽牛と長崎から来た混血男装の少女・紅丸。
 その少女の謎を追ううちに、彼らは少女が次に紀州の徳川吉宗に魔手を伸ばしていたことを掴みます。

 その異国の少女こそは、若い少女の生き血を力の源として長き年月を生き続け、死人や動物を操るなど奇怪な力を持つ魔女。将軍位に野心を持つ吉宗はその魔女を受け入れ、その力を借りようとしていたのであります。
 その一方、日本人でもオランダ人でもなく、男でも女でもない紅丸に対して、魔女は自分とともに異教の巫女となれと誘ってくるのですが……


 というこれまでの展開を受けての後半では、魔女を裏切りその口を塞ぐべく抹殺に走る吉宗一派の動きと、新たに通春に魔手を伸ばす魔女の動きが、尾張5代藩主・五郎太の早逝という史実と絡めて描かれることになります。

 その一方、自らの力の源として少女たちの生き血を集める魔女の次のターゲットとなったのは、牽牛の助手であり、紅丸の友達でもある少女・なつ。攫われたなつを追う紅丸たちと魔女、そして吉宗の手勢との、船上での三つ巴の戦いが、本作のクライマックスとなるのであります。

 このクライマックスは、魔女により乗組員が皆殺しにされ、下僕とされた幽霊船上というシチュエーションの妙といい、非日常的な妖魔と戦うのが、紀州藩の武士というある意味日常的な存在という対比の面白さといい、伝奇時代劇ファンとしてはなかなか楽しめる展開。
 音だけという制限ゆえ、迫力という点ではどうしても他のメディアには一歩譲らざるを得ないラジオドラマの短所を、上手く補っていたかと思います。

 また、将としての気風はあるもののそのために他者の犠牲を顧みない吉宗と、いまだ若いながらも人の情を重んじる通春の関係も、後世の二人を感じさせるものがあって面白い。
 特に、死んだ家臣を打ち捨てていこうとする吉宗と、たった一人の家臣の藤馬の身を案じる通春という対比などは、物語の根幹に通じるものを感じさせました。


 そう、本作の物語の背景としてあるもの――それは、人と人との結びつきでしょう。

 一国の長の座を左右しかねない強大な魔力を持ち、他人の生き血をすすって生きながらも、同胞もないままたった一人生き続ける魔女。あるいは、将軍という権力の座を求め、そのために部下の命を擲って省みない吉宗。

 望むと望まざるとに関わらず一人で生きる彼女たちの姿は、藤馬との結びつきを何よりも重んじる通春、あるいは自らの想いを隠して愛した女の心を救うために奔走した牽牛ら、他人のために自らの力を尽くす者たちと対比する形となっていたと感じます。

 そしてその両サイドの間に立つ者が、本作の主人公・紅丸でありました。上で述べたように、二つの国の間に生まれ、女としての自分を厭って男装に身をやつす紅丸。その姿は、魔女が自らの仲間に誘ったように、「そちら側」に近いとも言えるものでもあります。

 しかし、彼女は決して望まれずに生まれた存在ではなかった、彼女は生まれた時から周囲の愛に包まれていた――それが彼女を「こちら側」に留まらせ、本作のクライマックスにおける選択に繋がったと言えるでしょう。

 もっとも、この辺りの構図が今ひとつ見えにくかった……というよりも、その選択の姿にあまりカタルシスが感じられなかったため、物語としては少々地味な結末に見えてしまった、というのも正直な印象ではあるのですが……
(もちろん、全てを描ききらないことで、未来に向けて開いた物語としたことは理解できます)


 しかし、いささかなりとも勿体ない部分はあったとはいえ、このような形で新たな伝奇時代劇が生まれたのは、何よりも嬉しいことであります。
 この「青春アドベンチャー」は今までも挑戦的な作品を取り上げてきた番組枠でしたが、これからもこのような冒険が続いて欲しいと、心から願う次第です。


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 『エド魔女奇譚』第1回-第5回 異国の魔女、徳川家を惑わす

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2016.09.15

『エド魔女奇譚』第1回-第5回 異国の魔女、徳川家を惑わす

 蘭方医・宮部牽牛を頼って長崎から江戸に出た男装の少女・紅丸は、若い侍・星野藤馬と出会う。尾張藩主・吉通の死に不審があり、牽牛の話を聞きに行くという藤馬。折しも江戸では若い娘の失血死が連続、紅丸と藤馬、牽牛、そして藤馬の主の尾張通春は、一連の事件の背後に潜む魔女の存在を知る……

 NHK-FMのラジオドラマ枠「青春アドベンチャー」は、荒山徹の『魔岩伝説』をドラマ化するなど、以前からユニークな作品チョイスで大いに気になっておりました。
 そして今回放送されるのは、なんとオリジナルの伝奇時代劇。とりあえず全10回のうち、前半の5回までを聴きましたが、なかなか丁寧に作られた作品という印象があります。

 時は七代将軍家継の治世である正徳3年、男装の少女・紅丸が、生まれ育った長崎を飛び出し、江戸を訪れた場面から物語は始まります。オランダ人と遊女の間に生まれた紅丸は、自分の境遇とこの先待つ未来を嫌い、母の馴染みであったという蘭方医・宮部牽牛を頼ってやってきたのです。

 その牽牛、実は先に若くして亡くなった尾張藩主・吉通と交流があったのですが、生前の吉通に不思議な話を聞かされていました。かつて吉通の前に不思議な異国の少女が現れ、彼を将軍位につけてやると誘うも、吉通はこれを撥ね除けたというのであります。
 さらに牽牛は、顔なじみの町方同心の依頼(というより自身の学問的興味)で町で見つかった変死体を検死した際に、死体から血液が失われていることを知ることになります。

 一見無関係に見える二つの事件。しかし吉通の前に現れた少女こそは、名も無きものの僕たるテッサリアの巫女――古代ギリシャのヘカテー女神を崇める魔女であり、その力の源は、若い娘の大量の血だったのであります。
 その魔女は謎を追う紅丸たちの前にも出現。さらに、既に死んだはずの男が彼女たちを襲います。そして紅丸たちは、魔女が紀州の吉宗の周囲にも出没していることを知り、吉宗に迫るのですが……


 タイトル通り江戸に密かに「魔女」が入り込んでいたとしたら……という本作。しかしその魔女の力の源が、ヘカテー女神というのには、オッと思わされます。

 ヘカテーとは元々は古代ギリシアの力ある女神だったものが、やがて夜や魔術、妖魔といった存在の支配者となった存在。夜に十字路や三叉路に現れる三つの体を持つ女神として、中世以降、魔術・魔女術を信奉する人々に崇拝されることになります。
 これまで時代もので黒魔術を道具立てにした作品は幾つかありますが、それらが転び伴天連らによるものであったのに対して、本作の独自性が感じられるというものでしょう。

 そしてその魔女が絡むことになるのは、第八代将軍位を巡る争い。最終的にこの位に就くのが誰であるかは言うまでもありませんが、ここに至るまでに、尾張、そして紀州で徳川家の人間が幾人も亡くなっているのは史実であります。(特に吉宗の場合、その都合の良さにしばしばフィクションでは疑いの目を向けられるほど)。

 そして主人公サイドにいるのが、その吉宗とは後年ライバル関係にあったと言える尾張藩主・徳川宗春の若き日の姿というのも面白い(ちなみに藤馬も実在の人物)。なるほど、この人物であれば、紅丸のような娘にも気さくに接し、市井に混じって怪事件に挑む――その一方で、徳川家の人間として魔女のターゲットともなる――のも違和感はありません。


 この前半部分は、題材のわりには比較的おちついた展開が続くのですが、これは後半に向けての助走と考えればよいでしょうか。
 正直なところ、まだまだこの先の展開はわかりませんが、しかし注目すべきは、紅丸の存在でしょう。

 歴史上の人物や超自然の魔女が登場する本作においては、一歩間違えればキャラが食われかねない紅丸。しかし第5回において、魔女が紅丸に語りかけた言葉が印象に残ります。
 西洋人と日本人の間に生まれながらどちらの側にも属さず、そして女であることを捨て、しかし男にもなれない紅丸。二つの世界の狭間にあって、どこにも属せぬ存在である点において、紅丸は魔女に等しく、そして共にテッサリアの巫女になるに相応しいと。

 通春や藤馬が史実を、そして武士を象徴するキャラクターだとすれば、紅丸は虚構を、庶民を象徴するキャラクターでしょう。
 その両者の間に滑り込んできた魔女に対し、彼女が、彼女の周囲の人間たちがどのように立ち向かうのか。そして両者の間にあるものは埋まるのか――

 後半戦で何が描かれるのか、そして何よりも物語の果てで紅丸を待つものは何か、楽しみにしているところであります。


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2016.04.14

『幻想神空海 沙門空海唐の国にて鬼と宴す』 原作を昇華したもう一つの「沙門空海」

 歌舞伎座の四月大歌舞伎で『幻想神空海 沙門空海唐の国にて鬼と宴す』を観劇してきました。副題からわかるように、夢枕獏の同名小説を原作とした新作歌舞伎であります(『幻想神空海』の方は、夢枕獏の空海論の題名)。安倍晴明に続き、空海を演じるは市川染五郎であります。

 時は9世紀初頭、遣唐使として唐に渡った空海と橘逸勢。ふとしたことから、官吏の妻が猫の妖物に憑かれたことを知った空海は、唐における密教の拠点である青竜寺に自分の名を売り込むため、この妖物との対決を決意します。
 しかし想像以上の力を持つ妖物に翻弄された空海は、事件に50年前に死んだ楊貴妃の存在が絡んでいることを察し、逸勢そして白居易とともに大胆にも楊貴妃の墓を暴くことを決意。しかしそれによって楊貴妃にまつわる大秘事に彼らを巻き込んでいくことに……

 そんな本作の物語は、原作である『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』のほとんど異なることはありません。当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、しかし原作は単行本で全4巻という大長編。
 この歌舞伎版は、一幕もので2時間20分という、相当に長い部類に入りますが、しかしこの長大な物語を描き切ることができるのか……というこちらの心配は、杞憂に終わりました。この歌舞伎版は、限られた時間の中で、原作の物語をほぼ消化、いや昇華してみせたのであります。

 もちろん、原作と付き合わせてみれば、オミットされた部分は様々にあることは間違いありません。しかし、原作の物語の印象的な部分、骨格となる部分はきっちりと拾い上げ、舞台として換骨奪胎することで、本作は、見事にもう一つの『沙門空海……』として成立していると感じます。
(観劇後、ざっと原作に目を通し直すまで、オミットされた部分に気付かなかったほどです)

 特に感心させられたのは、夢枕獏作品の名物とも言える長い過去編の処理です。原作においては、阿倍仲麻呂らの手紙という形で語られる、50年前の長い物語。本作では、そのくだりを義太夫節に乗せた女形二人の踊りで見せてしまうのであります。
 実は本作、歌舞伎と言いつつも、そこまではほとんど歌舞伎らしい部分は見せぬ、ある意味普通の舞台劇的演出がほとんどなのですが、ここでパッといかにも歌舞伎らしい見せ方で、長い物語をダイジェストしてみせるのはお見事と言うべきでしょう(阿倍仲麻呂という日本人の手紙、という形式とも平仄が合います)。

 ちなみにもう一つ歌舞伎というスタイルをうまく使ってみせたのが、猫の妖物に憑かれた女の描写。
 この女のビジュアルは、頭に猫を乗せているという、かつてないほどダイナミックな直球ぶりなのですが、女からその頭上の猫の妖物に体の主導権が移り、妖物が喋り出すのを、女形の声から地の男性の声に変えることで示すのには、感心させられました。


 私が観劇したのは初日ゆえ、粗を探せばないわけではありませんが、原作の舞台化としても、新作歌舞伎としても、なかなかに楽しめる一幕であったことは間違いありません。

 ちなみに(という取り上げ方も申し訳ありませんが)、染五郎も、逸勢を演じた松也も、実に伸び伸びと演じていたのに好感が持てました。
 染五郎の、晴明とは似て非なる、超人の中の人間くささをより強調してみせた空海も良かったのですが、松也の逸勢は、異国でも(己の才を頼んで)物怖じしない元気さと、その一方での空海への頼りっぷり(「どうしたものかなあ空海」という台詞の天丼ぶりが楽しい)が、なかなかうまく表れていたと感じます。
(ちなみに本作、時事ネタ的なものはほとんどないのですが、松也渾身の「最近はどこで何が漏れるか分からない」には大いに笑わせていただきました)


 先に述べたとおり、実際に観るまでは不安もあったこの歌舞伎版ですが、いやいや、こういうやり方もあるのか、と大いに感心させられた、原作ファンにとって非常に楽しい作品であったと思います。



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 「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」第1巻 再び始まる空海と逸勢の冒険

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2015.12.31

このブログの2015年を振り返って(下半期篇)

 ブログ記事で(の)2015年を振り返る後編、下半期分であります。比較的近い時期のことが多くなりますが、意外と忘れているものではあります。

7月
 この月は何といっても歌舞伎『阿弖流為』鑑賞。劇団☆新感線の『アテルイ』の歌舞伎化ですが、あまりの見事さに二週連続で見てしまったほどであります。これこそは舞台で見るべき作品でしょう。
歌舞伎NEXT『阿弖流為』 世に出るべくして出た物語

 印象に残った作品は4点。最後の作品は、相当昔の作品ではありますが、偶然手にした今この時に相応しい内容でした。こういうことも少なからずあるものです。
越水利江子『うばかわ姫』 真実の美しさを生み出すもの
鏑木蓮『イーハトーブ探偵 山ねこ裁判 賢治の推理手帳II』 真に裁かれた者の名は
木下昌輝『人魚ノ肉』 人魚が誘う新撰組地獄変
ほんまりう『漱石事件簿』 漱石が見た近代日本の陰


8月
 この月はブログ記事というより関連サイトのことですが、大年表の大年表を更新。昔から一つの年表の中に様々な作品のことを並べるのが大好きだったので、こうした企画は本当に楽しい。しかし不思議なのは、本業が一番忙しいはずの8月の自分に、こんな手間のかかる更新をする暇があったことですが……
大年表の大年表 更新

 特に印象に残ったのは両極端な二点。前者については好企画だっただけに、ぜひ復活して欲しいものですが……
『江戸ぱんち 夏』 アベレージの高い市井もの漫画誌
武村勇治『天威無法 武蔵坊弁慶』第5巻 激突! 突き抜けた力を持てる者


9月
 この月はやはり舞台『MOGURAYA 百年盂蘭盆』鑑賞。小劇場での観劇は本当に久し振りでしたが、しかしその距離感と作品のムードが良く合っていました。過去作もいずれ必ず取り上げます。
『MOGURAYA 百年盂蘭盆』 舞台で帰ってきたもぐら屋!

 そしてもう一つ、これは本編が出る前のプレビューを題材にした苦し紛れな記事でしたが、やはり『桜花忍法帖 バジリスク新章』の存在は大ニュース。しかし現物は、この時点での予想を遙かに上回る色々な意味でとんでもない作品でした。
山田正紀『桜花忍法帖 バジリスク新章』刊行!?

 印象に残ったのは以下の二作品。全く趣向も題材も異なる作品ですが、奇しくも物語の力を描いたという共通点があります(私がそういう作品が大好きだ、というのはもちろんありますが)
會川昇『超人幻想 神化三六年』 超人を求める人々の物語
渡辺仙州『文学少年と運命の書』 物語の力を描く物語


10月
 そしてこの月はアニメが二本スタート。どちらもいわゆるヒーローを扱いつつも、片や昭和を思わせる架空史もの、片やファンタジー調の平安ものという毛色の変わった作品(そしてどちらも會川昇脚本作品)であります。
 毎週二作品のレビューで記事が書けて助かる、と思いつつも、コンレボの方はあまりのボリュームに脱落状態……いずれまた。
『コンクリート・レボルティオ 超人幻想』 第1話「東京の魔女」
『牙狼 紅蓮ノ月』 第1話「陰陽」

 印象に残った作品は4つ。我ながら見事なまでにバラバラの作品であります。
北崎拓『ますらお 秘本義経記 波弦、屋島』第1巻 もう一人の「義経」、もう一人のますらお登場
谷津矢車『曽呂利! 秀吉を手玉に取った男』 「善」に抗する者の名
篠原景『春は遠く 柏屋藍治郎密か話』 「生きにくさ」を抱きしめて
熊谷カズヒロ『モンテ・クリスト』第4巻 待ち、しかし希望した末にあったもの


11月
 この月は大きな出来事はありませんでしたが、『衛府の七忍』で飛び出した「テヘペロでやんす」は、個人的には今年の流行語大賞です。あまりに使い回しが良すぎる。
山口貴由『衛府の七忍』第1巻 新たなる残酷時代劇見参!

 もう一つ、来年の大河ドラマを踏まえてこれはこの後本格化するであろう真田ものの児童小説の第一弾として、あえて「物語」を描いたこの作品には感銘を受けました。
奥山景布子『真田幸村と十勇士』 「幸村」の「物語」が持つ意味

 その他印象に残ったのは以下の三作品。『鬼神の如く』は、勝手に優等生のイメージを持っていた作者の意外な伝奇センスに驚きました。
朝松健『魔道コンフィデンシャル』 邪神対邪神、人間対邪神、人間対人間
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』(その一) 不可解な御家騒動を彩る要素
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』(その二) 叛臣か忠臣か、鬼神か聖者か
廣嶋玲子『鵺の家』 呪いへの依存という地獄の中で


12月
 そして今月は、やはり二つの商業原稿が一番の出来事(もちろん、実際に描いていたのはもっと前ではありますが)。何故か年末に出番が回ってくることが多い人間です。
武内涼『吉野太平記』の解説を担当しました
『この時代小説がすごい! 2016年版』 驚きのランキングに刮目せよ!

 もう一つ、取り上げるべきは、こうすればいま『水滸伝』を描けるのか、と感心させられたこの作品。水滸伝熱がますます高まりました。
逢巳花堂『一〇八星伝 天破夢幻のヴァルキュリア』 降臨、美しき一〇八の魔星たち!

 印象に残ったのは以下の二作品。今月刊行された『桜花忍法帖』下巻はいつ取り上げたものか……
矢島綾『天空をわたる花 東国呼子弔忌談 過去を呼ぶ瞳』 世の則と人の情の狭間に
山田正紀『桜花忍法帖 バジリスク新章』上巻(その一) 山田対山田の対決
山田正紀『桜花忍法帖 バジリスク新章』上巻(その二) 人間性を否定する者への怒り


 以上、手間がかかる割りに面白いかどうかは我ながら疑問も残る企画でしたが、ある意味このブログの総集編ということで、個々の記事をご笑覧いただければ幸いであります。


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2015.12.30

このブログの2015年を振り返って(上半期篇)

 形式こそブログではあるものの、速報性や適時性といったものに、当ブログはほとんど重きを置いていません。それでも振り返ってみれば、それなりにその時ならではのトピックを扱っていることもあり、それをまとめてみるのも面白いかな……というわけで2015年を振り返ってみたいと思います。

 基本的には月ごとに、その月特有のトピックと、その月に紹介した作品の中でも特に印象に残った作品を挙げたいと思います。後者については、紹介時期からかなり以前に発表された作品も少なくないのですが、それについても敢えて含めています。


1月
 通し狂言『南総里見八犬伝』を鑑賞したのが、一番正月らしいイベント。歌舞伎や古典芸能はしばらく取り上げていませんでしたが、また増やしていきたいところです。
通し狂言『南総里見八犬伝』 通しで観る八犬伝の楽しさ、難しさ

 また、この2015年を通じて個性的な作品を次々とリリースしてきた白泉社招き猫文庫において、あかほり悟の時代小説第一作が刊行されたのは、やはり印象に残りました。
『御用絵師一丸』 絵師の裏の顔と、「今」と向き合う人々と


 印象に残ったのは以下の二作品です。
『忍者物語』(その一) 史料に残る忍者、史料に残らぬ「真実」
『忍者物語』(その二) 忍者という名の人間たちの姿
『ゴールデンカムイ』第1巻 開幕、蝦夷地の黄金争奪戦!


2月
 2月は月が短いせいもあり、さまで目立ったものはありませんが、漫画版『夢源氏剣祭文』がwebコミックで再開したのは嬉しい知らせでした。しかし本作、二度の中断を乗り越えてようやく完結したにも関わらず単行本続巻の予定なしという状態。しかも現在掲載されているのも第1話と最終話のみというのがさらに残念。webコミックが増えている一方で、こうしたケースも増えるのでしょう……
漫画版『夢源氏剣祭文』連載再開!

 印象に残った作品は、以下の二作品。前者は作者の久々の作品ですが、『この時代小説がすごい!』でもランキング入りしたのは本当に嬉しい出来事でした。
『未来記の番人』 予言の書争奪戦の中に浮かぶ救いの姿
『うわん 流れ医師と黒魔の影』 彼女の善き心と医者であることの意味


3月
 3月も目立った出来事はありませんでしたが、個人的に嬉しかったのは、雑誌掲載以来、幻の作品となっていた『BURNING HELL』の単行本化。実に7年越しの単行本化ですが、待ち続けていればこういうこともあります。
『BURNING HELL 神の国』 地獄と人間を描く二つの物語

 またこの月は『この時代小説』で見事ランキング一位を飾った『妖草師 人斬り草』も登場。趣味で生け花(の真似事)をしていることもあり、本作で描かれる生け花とは何か、という言葉には大いに共感しました。
『妖草師 人斬り草』(その一) 奇怪なる妖草との対決、ふたたび
『妖草師 人斬り草』(その二) 人の、この世界の美しきものを求めて

 印象に残った作品は以下の漫画二作。
『アンゴルモア 元寇合戦記』第1巻 「戦争」に埋もれぬ主人公の戦い始まる
『一の食卓』第1巻 陽の料理人見習いと陰の密偵と


4月
 個人的に大事件だったのは、會川昇の(おそらく)初の時代伝奇小説『南総怪異八犬獣』発表。短編ですが、題材が八犬伝な上に実に作者らしい趣向と内容に大いに満足しました。
八犬伝特集その十七 會川昇『南総怪異八犬獣』

 印象に残った作品はかなり多く、絞っても四作品。特に『でんでら国』は個人的に2015年のベストです。もっと読まれるべき作品。
『でんでら国』(その一) 痛快なる老人vs侍の攻防戦
『でんでら国』(その二) 奇想と反骨と希望の物語
芝村凉也『素浪人半四郎百鬼夜行 零 狐嫁の列』 怪異と共に歩む青春記
矢野隆『覇王の贄』 二重のバトルが描き出す信長とその時代
仲町六絵『南都あやかし帖 君よ知るや、ファールスの地』 室町の混沌と豊穣を行く青年妖術師


5月
 5月は、自分でも危うく忘れるところでしたがこのブログが毎日連続更新で10周年。しかしもちろん、通過点に過ぎないのです。
ブログ連続更新10周年を迎えました

 そして久々の商業原稿としては、『ランティエ』で平谷美樹『水滸伝』の解説記事を担当。作者も題材も大大ファンなだけに。大いに気合いが入りました。『水滸伝』も『この時代小説』のランキングが良かっただけに、続刊を期待しています。
『ランティエ』6月号で平谷美樹『水滸伝 1 九紋竜の兄妹』関連の記事を担当しました

 もう一つ、朝松健の一休宗純ものが帰ってきたのも、まさしくこのブログで取り上げるべきニュースでした。
朝松健『かはほり検校 一休どくろ譚』 一休宗純、再び暗き夜を行く

 印象に残った作品は、ちょっと変化球ですが以下の二作品。こうした作品も忘れずチェックしていきたいと思っています。
『なないろ金平糖 いろりの事件帖』(その一) 超能力探偵のフェアなミステリ
『なないろ金平糖 いろりの事件帖』(その二) 彼女の最後のチカラ
竹下文子『酒天童子』 理想の武士、理想の「大人」としての頼光


6月
 6月は大きな出来事はなし。滅多に自分語りをしない私が自分の話に絡めた以下の記事が珍しかったかもしれません。
會川昇『神化三六年のドゥマ』(前編) 伝奇的なる世界が描き出す現実

 印象に残った作品はぐっと増えて以下の5作品。もっとも、『エンバーミング』は何故このタイミングなのか、我ながらお恥ずかしいことです。
長谷川卓『嶽神伝 孤猿』上巻 激突、生の達人vs殺人のプロ

長谷川卓『嶽神伝 孤猿』下巻 「山」のような男の名
吉川永青『闘鬼 斎藤一』 闘いの中に己の生を貫く
ガイ・アダムス『シャーロック・ホームズ 恐怖! 獣人モロー軍団』 今度の世界はSF!?
和月伸宏『エンバーミング -THE ANOTHER TALE OF FRANKENSTEIN-』第10巻 絶望と狂気の先にあったもの


 思っていた以上に長くなりましたが、下半期は次回に。


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2015.09.20

『MOGURAYA 百年盂蘭盆』 舞台で帰ってきたもぐら屋!

 築地ブディストホールで上演された舞台『MOGURAYA 百年盂蘭盆』を観て参りました。澤見彰の『もぐら屋化物語』シリーズを原作とした本作、脚本も澤見彰ということで楽しみにしておりましたが、原作の賑やかな世界をそのまま舞台に移したようなユニークな作品でありました。

 幕末に近い江戸は内藤新宿を舞台に、会津藩を脱藩して流れ着いた若き浪人・楠岡平馬が、妖怪ばかりが泊まるおかしな旅籠・土龍屋の用心棒となって悪戦苦闘する姿を描いた『もぐら屋化物語』。
 これまで廣済堂モノノケ文庫から3作発表されたシリーズですが、これまで2回3エピソード舞台化されているところであります。

 恥ずかしながらこれまでに舞台はまだ拝見していないのですが、冒頭に述べたとおり今回は作者自身によるオリジナルストーリーということで――原作もしばらく続編が出ていないこともあり――これは見るしかあるまいと思ったところです。

 さて、見る前は完全にこれまでの舞台の続編と思いこんでいた本作ですが、さにあらず、本作はある意味リブートと言うべき構成となっております。

 盂蘭盆の晩、脱藩して追っ手(鬼の佐川官兵衛!)に追われながらヨレヨレになって内藤新宿にたどり着いた平馬。
 行き倒れ同然で少女・お熊の営むおんぼろ宿屋・土龍屋に担ぎ込まれた彼は、一宿一飯の恩義から用心棒役を買って出ますが、土龍屋は守り神を自称する巨大な土竜・ムグラさまや、渡世人姿の白犬・シロなど妖怪たちが出入りする宿でありました。

 そんな折も折、内藤新宿を護る太宗寺の閻魔像の片目が盗まれるという事件が発生、地獄の閻魔大王の分身である閻魔像が力を失ったことで、妖怪たちが暴れ出す事態に。
 さらに、百年の怨念を秘めた魔が、土龍屋を狙って動き出し……


 と、内容的には原作の第3巻『用心棒は就活中』で描かれた閻魔の目玉盗難事件や旅犬シロの過去のエピソードを織り交ぜつつ、オリジナルの展開でまとめた本作。
 登場するキャラクターも、平馬、お熊、ムグラさまをはじめ、赤鬼のお稲一味に迷惑兎の玉兎と、原作でお馴染みの面々を中心になかなか賑やかな顔ぶれです。

 ですが、原作は妖怪変化が数多く登場する作品。ムグラさまは人間大の土竜ですし、シロは二本足で立って歩く犬と、そんな面々をどのようにビジュアル化するのだろう……
 と思いきや、ほぼ完全に素面で、幾つかキーアイテム的なものでキャラクターを主張する――例えばムグラさまは黒い丸眼鏡、シロは白い鬘――という、ある意味舞台的な正面突破の潔さには、いい意味で感心しました。

 今回の舞台、俳優がほとんど全員美男美女というなかなかすごいものだったのですが、しかしふんだんに盛り込まれた殺陣もなかなかの迫力(チャンバラ中の蹴り技多用は……まあ仕方ないでしょう。ドスの殺陣はもうちょっと頑張って)。
 普段ふぬけ浪人呼ばわりされる平馬がチャンバラではヒイヒイ言いながらも存外に強いというのも、「腕は立つけれどもどうしようもなく甘ちゃんでお人好し、しかしそれが周囲を救う」という平馬らしさがよく表れていたと思います。

 また、役者でいえば、ムグラさま役の大石敦士は、さすがにつか劇団出身と言うべきか、発声といい動きといい頭抜けていた印象。上記のとおりサングラス一つで大土竜を演じて見せるというのも、この役者ならではであったかもしれません。


 そんなわけで原作ファン的にはかなり満足できた本作ですが、一点勿体なく感じるのはのは――上記のとおりビジュアル的に仕方のない面はあったとしても――人間と妖怪の違いが、その両者が共に存在する内藤新宿の特異性が見えにくかった(裏を返せば「人間」側の登場人物が少なかった)点でしょうか。

 それ故に、終盤での「敵」と平馬の、共にある意味人間と妖怪の境を超えながらも、その方法と結果は全く異なる者同士の違いが、そしてそこにある平馬なればこその「強さ」が見えにくくなってしまったように感じられるのです。


 もちろん、二時間弱の間に基本設定を全て語り、新たな物語を展開してみせた――それも原作の持つコミカルさ、賑やかさを再現しつつ――のは、見事というべきでしょう。
 それだからこそ、あともう一歩の踏み込みで、さらに素晴らしい作品になるのではと、新たなる『もぐら屋化物語』の始まりになるのではと、感じたところではあります。



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2015.07.16

歌舞伎NEXT『阿弖流為』 世に出るべくして出た物語

 劇団☆新感線の舞台『アテルイ』について先日紹介しましたが、その上演から13年後の今年、歌舞伎『阿弖流為』として復活しました。阿弖流為を舞台と同じ市川染五郎が、坂上田村麻呂を中村勘九郎が、そして二人の間に立つ二人のヒロイン、烏帽子と鈴鹿を中村七之助が一人二役で演じております。

 さて、「歌舞伎NEXT」と銘打たれた本作、脚本は中島かずき、演出はいのうえかずのりと、オリジナルと同じ。
 ロックの生曲が流れる劇中も、激しい殺陣も(効果音も)、新感線でお馴染みのものなのですが……しかしそれでもきちんと歌舞伎になっている、と感じられるのが面白い。

 もちろん、花道を使っての見得など――新感線に染五郎が出演した際に見得切りはありましたが、サービス的要素に留まっていたのに対し――歌舞伎ならではの演出が要所要所で活きているのは言うまでもありません。
 しかしそれ以上に、大音量にも派手な殺陣にも食われることなく、歌舞伎ならではの(特に静と動の)演出、見せ方というものが、その外側できっちり息づいているという印象を受けました。
(その一方で、歌舞伎では独特のゆったりとした殺陣を演じている役者たちが、新感線流の激しい殺陣をきっちりとモノにしているのにも驚かされました)

 さて、いささか前後しましたが、本作は阿弖流為と坂上田村麻呂の、不思議な友情と共感で結ばれた男同士の対決を中心にして描かれる物語であります。そして、その中で特に大きく印象が変わったのが田村麻呂。
 というのも、舞台の方ではどちらかといえば完成した人格で、悩み、荒れる阿弖流為を受け止め、鎮める役を担っていた田村麻呂ですが、こちらでは、完全に阿弖流為以上に「若い」人物として描かれるのです。

 どこまでも明るく熱く、この世に正しき理があることを信じる――そんな若者が、それ故に現実の壁にぶつかり、悩むというのは、新感線では定番のキャラクター造形の一つという印象ですが、それを勘九郎が好演。
 阿弖流為の側が、冷静かつ現実的に物事を見つめ、それ故に苦しむという、これも新感線的なキャラクターであるのと好対照で、舞台は基本的に阿弖流為ひとりが主役であったのに対し、本作は阿弖流為と田村麻呂、二人が主役という印象が強くあります。

 また本作では、ヒロインたちの存在を、舞台とは大きく変えて描き出します。阿弖流為に付き従う烏帽子、田村麻呂を支える鈴鹿の二人は変わらぬものの、その在り方は大きく異なり(鈴鹿は舞台と異なり、後半からの登場)、そしてその位置づけがよりくっきりと鮮やかに見える形となっているのです。

 そしてそれに大きく貢献しているのが、烏帽子と鈴鹿を一人二役で演じた七之助。
 動の烏帽子と静の鈴鹿、同じ姿を持ちつつも異なるパーソナリティを持つ二人を巧みに演じ分けて見せたのには唸らされましたが、何よりも烏帽子の××の際に見せた、怒り・悔恨・哀しみ・愛情といった様々な想いが入り乱れた表情が実に素晴らしく、大いに泣かされたところであります。


 しかし――個人的には本作を観劇する前に、何故いま阿弖流為? という疑問がありました。舞台の公開年は阿弖流為没後千二百年に当たっていましたが、今年はそういった由縁があるわけでもなさそうなのに……と。

 が、実際に観劇した今では、本作は今この時に演じられる意味があった――そう強く感じさせられました。異なる民族同士の争い、不寛容を描く本作の基本ラインはそのまま、その表現は随所で洗練され、先鋭化され、まさに現代性を得ていたのですから。

 その一つが、阿弖流為を裏切る蝦夷の男・蛮甲の描写でありましょう。舞台では小狡く立ち回り、大和側で地位を得た彼は、それとは全く異なる経緯を経て、どちらの民族でもない男としてさすらい、ある役目を果たすのであります。

 そしてまた、舞台にはなかった、阿弖流為の都への連行を記した立て札を前にした庶民たちの会話が印象に残ります。
 この場面自体は、歌舞伎ではよくある、舞台装置を変えている間の時間つなぎではありますが、その内容が、異民族を人として扱おうという者に対する同調圧力とも言うべきものであり……ここでこうした場面を入れ込んでくる作り手の姿勢に、唸らされます。

 もちろん、いまこの時に本作が上演されたのは、主に役者や劇場のスケジュールという理由によるものでありましょう。
 しかしそれを承知していてもなお、物語は時にあたかも運命的に、世に出るべき時に出るものがあるのだと――そう感じさせられた次第であります。


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